同じ匂い
やがて小田は肉体の快楽だけでは満足できないようになりました。
あたしの体だけでなく心も、そしてあたしの時間さえも自分のものにしたいと言う独占欲が彼の中に芽生え始めたのです。彼もあたしと同じ、心の中に黒い蛇を飼っていたのです。
あたしの行動をこと細かく監視して、仕事以外で、もし自分以外の男性と何らかの接触があれば、その度に酷く追求されました。けれども、あたしは小田が求めるような関係を一切望んではいません。当然、以前と変わることもなく、他の男から求められればそれに応じていたわけです。
男は本当に困った生き物です。一度体を許せば、何でも言うことを聞く。もう自分の所有物であると思うようですが、それは勘違いも甚だしい。あたしにとってはおしゃべりしたり、食事をしたりすることと、ベッドを共にすることは何ら変わりのないことなのです。そんな女でしたから、小田とあたしの温度差は広がるばかり。
「俺が既婚者だから君はいつまでも俺を好きになってくれない。他に言い寄る独身男性と俺が戦うにはあまりにハンデが大き過ぎる。妻と別れる。子供も捨てる。だから俺といっしょに生きて欲しい。君を他の誰にも渡したくないんだ」
やがて小田はそうあたしに言いました。冷静な時であればきっと拒んだことでしょう。けれど、小田がこの言葉を吐いた時、あたしは診察台の上で小田にのし掛かられて悶絶している時でした。激しく彼があたしの体を何度も何度も貫き、あたしは気も狂わんばかりの絶頂の淵にいました。
「俺と、俺といっしょに逃げてくれ!」
彼が果てる寸前に口走った言葉です。気が付けば、あたしもうんうんと頷いていました。今思えばあの時のあたしはどうかしていました。どうして承諾してしまったのでしょう。そんなことをすれば小田の奥さんや、子供さんたちはどうなる。家庭はどうなる。単純に考えればわかることです。そこまで代償を払うほど価値のあることだとは到底思えません。やはりこれもあたしの中に棲んでいる黒い蛇のせいかもしれませんね。
果てた後、小田は、あたしの胸の上で泣いていました。大の男が、地位も名誉も家庭もかなぐり捨ててあたしの胸の上でわんわん号泣している姿を見て、あたしの心は逆に急激に冷めて行く感覚を覚えました。一人の人間が、しかも何もかも手に入れて、超エリート街道をひたすら走っている男が、ここまで壊れてしまうなんて思いもしなかった。
あたしはこの頃から小田に義父と同じ匂いを感じるようになりました。思えば義父は、本当は体ではなく、あたしの心を犯したかったのでしょう。あたしを愛していたのかもしれません。
さて、ここから先に書くことは、ヒデ君にとってあまりに衝撃的な内容です。やめるのならここまでにしておいて下さい。
僕は額に浮き出た汗を拭い、扉を開けて外に出た。部屋を出たところで、ふぅ、と一つ大きく深呼吸する。ここまででも十分に衝撃的な内容なのに、この先さらに恐ろしいことが書かれているのか。ユキさんの中に蠢く黒い蛇が僕を睨んでいる。そんな気がした。
「ヒデ、もう晩ご飯できるよ!」
僕がドアを開ける音が聞こえたのだろう。階下から母の僕を呼ぶ声が聞こえた。けれどまったくお腹は空いていない。それどころか鳩尾の辺りがしくしく痛み、酸っぱい物が上がって来る。むかむかして吐きそうだった。
午後七時を過ぎ、南側の窓から見える外の景色は、海の底のような色に染まっている。――透明な青い……ああ、ユキさんの好きな色だと思った。
何か冷たい物を飲もう。絶対に続きは読む。しかし一度手紙から、少しだけ離れようと思った。階下に降りると、奥の茶の間には母ともう一人、山田さんだ。二人が座ってお茶を飲みながら話をしていた。
続く