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黒い蛇

「ヒデ、何て書いてあるんだい? わたしにも読ませておくれよ」

 母が横から口を出す。

「また後でね」

 そう言って両手で手紙を持ち、部屋に戻った。

 今まで掛けたことのない鍵を掛けた。

 手紙を開くと、ユキさんの声が頭の中に直接聞こえているような気がした。


 ――あたし、ずいぶんあなたを傷つけてしまいました。いけないとわかっていつつ、純真なヒデ君をこの手で壊してしまいたいと言う衝動を抑えることができませんでした。

 あたしの中には抑えようとしても抑えることができない黒い蛇が棲んでいるのです。何か大事なものを得た時と、何か大事なものを失った時には、必ずそいつがむくむくとその醜い鎌首を持ち上げて、触れるものすべてを丸飲みにしてしまいます。

 

 丸一年もの間、あいつはあたしの体を犯し、そしていなくなった今もずっとあたしの心を犯し続けているのです。あたしの中でうごめく黒い蛇は、いつしか外に向かう強い情念と言う形で現れました。

 あたし、今までこうやって数えきれないほど多くの男性と体を交えてきました。学校の友人や、勤めていた病院はもちろんのこと、中にはまったく見ず知らずの男にまで。

 あたしは心が渇いてどうしようもなくなると、夜な夜な獲物を求めて繁華街をうろつきました。その対象となった男性も、下は街でたむろする十代の少年から、上はいいお年寄りまで。たぶんヒデ君にはそんなあたしを想像することなどできないでしょう。

 男の中にはたくさんお金をくれる者や、また会ってほしいと頼む者、酷い奴になると、友人を呼んで複数であたしに乱暴する男までいました。痛めつけられて、慰み者にされればされるほどあたしの心は満たされて行ったのです。でもそれも一時のことで、そんなことをしたってあたしの中の蛇はまたすぐにおなかをすかします。

 そんな時、あたしの前に現れたのが小田でした。

 ヒデ君も知っているように、小田はあたしが勤める病院の所属する科である脳神経外科のドクターで、既婚者。子供さんも二人います。しかも義父は副院長です。

 そんな小田の女癖の悪さは院内でも有名でした。でもあたしも院内では相当な男好きの看護師で通っていましたから、お互い似たもの同士。だから言い寄られてすぐに関係を持ちました。

 それは心にぽっかりと空いた穴をお互いの体で満たし合うだけの関係です。でもそれでよかった。あたしは小田にそれ以上は求めなかった。普通の女が男に対して求めるような、やさしさだとか、自分一人を見て欲しいだとか、ましてや愛されたいとか結婚して欲しいなどと言うことは、ただの一度も思ったことがありませんでした。

 男はみんなあたしの体だけが目当てで近寄って来るもの。ずっとそう思っていましたし、もちろんあたしも同じです。ただお互いが気持ちよくなりたいだけ。それは男とか女とかではなく平等な人と人との関係であると思っていました。他に面倒なことは何も求めていません。そうすれば黒い蛇から逃れることができたのです。

 でも小田の欲望には限りがありませんでした。ほんの少しでも時間があれば小田はあたしを求めました。車の中はもちろんのこと、夜の病院の屋上でも、彼のオフィスでも、使っていない病室のベッドでも、果ては診察台の上でさえ。どこでも。勤務中でも関係なく、あたしは彼の求めるままに、体を開け放ち、あたしの白衣は幾度となく汚されました。

 

 ――ユキさん……。

 ここまで一気に読んで、僕は目を閉じた。信じられない。本当にこれがあのユキさんなのか。僕の知っているユキさんなのか。作り話なんじゃないのだろうか。

 でも、白衣の裾を捲り上げ、後ろから小田に突かれるユキさんの姿が、まるでその場にいるように生々しく僕の脳裏をよぎる。あの夜のユキさんの声を堪えた喘ぎが聞こえてくるようだ。認めたくはない。けれどおそらく事実なのだろう。僕は嫉妬で気が狂ってしまいそうだ。

 ようやく窓の外が群青に染まり出していた。開け放たれた窓から、夜の湿った空気がゆっくりと部屋の中まで漂い始めていた。夏の夜の匂いがする。どこかで賑やかな笛や太鼓の音に合わせて威勢の良い掛け声が聞こえていた。今夜は氏神様の夏祭りだ。

 気が付けば僕は汗びっしょりだった。暑さも忘れていた。手首で額の汗を拭いつつ、僕は再び文面の青い文字を追い始めた。

                                    続く


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