二通の手紙
母は早朝から玄関の掃き掃除をしていた。
「母さん!」
僕が背後から声を掛けると、母は箒を持つ手を止めて僕の方を振り返った。
「ああ、夕べはご苦労だったね。宮崎さん、大丈夫だったかい?」
途端に母の顔を見ることが辛くなった。母さんを裏切った。その後ろめたさが僕の心を支配する。母は僕を信じていたに違いない。
「あの、これ!」
僕がその鍵を差し出すと母は一瞬、「それが何か?」と言う表情を見せた後、見る見る驚愕の表情に変わった。
「あ、宮崎さんは?」
「いない」
「いないって、ヒデ、おまえ何してたんだよ」
「ごめん、寝てた。夜明けまでは何とか起きていたんだけど、その後、ついうとうとしてしまって。ほんとにごめんなさい」
「あんたが眠るのを待っていたのかもね。鍵を置いて行ったってことは、ここにはもう戻らない気なのかもしれない」
「僕、探しに行って来るよ」
「探すったって、当てもないだろう。一応病院には問い合わせて見るけどね、さすがに行かないだろうよ。まあ出て行ったものはしかたないさ。連絡を待つしかないね」
母はあきらめたように言う。
その後、僕と母は何か手掛かりになるものが残ってはいないかと十五号室に向かった。ドアを開ける。先ほどまで寝ていたベッドが目の前にある。母がちらりと僕の方を見た気がした。でも僕にはユキさんの残り香以外は何も感じられない。
部屋内を隈なく確認したけれど、行き先の手掛かりを示すような物はなかった。ただ、いつも彼女が下げている水色のバッグは見当たらなかったのでたぶん持って行ったのだろう。
それから何の音沙汰もなく三日が過ぎた。もちろん勤め先の病院でも彼女の消息はわからなかった。ユキさんはここ数日、無断で病院を休んでいた。病院関係者は突然いなくなった彼女の穴を埋めるのに、シフトを組み直したり、中には休みを返上したりと、そのとばっちりを食った看護師も少なからずいたと山田さんがぼやいていた。
学校が夏休みなので、学習塾に通う以外の時間は家で勉強をしていたけれど、彼女が消えた朝から心配でほとんど何も手に付かない有様だった。
その日の夕方、母宛に一通の現金書留が届いた。それはかなりの厚みがあった。僕はサインをして受け取り、差出人の名前を見て驚いた。ユキさんからだった。しかし残念なことに差出人住所は、美芳館の住所になっている。つまり差出人とあて先の住所が同じ。これでは所在がわからない。
さっそくそれを母に渡した。
「お、現金書留だね。しかも分厚い。いったいいくら入っているんだろうね」
母が封を切ると、中には現金十万円と二通の手紙が入っていた。分厚いのは現金ではなく手紙の方だ。
二通の手紙の薄い方の一通は母宛になっていた。そしてもう一通はとても分厚い。表には青いインクで「ヒデ君へ」と書かれていた。
母宛の手紙は便箋たった一枚だけだった。不倫騒動を起こしたあげく、小田の自殺と言う形で幕切れとなってしまい、美芳館にも大きな迷惑をかけてしまったこと。何も告げずに急に部屋を出てしまったことなど、それらの勝手なふるまいに対する母への詫びがそれには書かれていた。
そして十万円は、残して行った家財道具や、衣服などの処分を含めた退居に係る費用として収めてほしいと言うことだった。
母は憤慨していた。それは不倫とか、勝手にここを出たことに対する怒りでも、もちろん入っていた金額に関することでもなく、母も含め、もちろん僕も、大勢の人たちに心配を掛けさせたことに対する怒りだ。
面と向かって謝るのが筋だろう。それなのにこんな手紙一通とお金で済まそうなどとしたことが、いい大人としてどうなのだ? と言いたかったわけだ。
それは僕もよくわかる。ただそれも僕宛の手紙を読むまでだった。分厚い封筒から便箋を抜き出すと、やはり青色のインクでびっしりと書かれている。たぶん十枚以上あるだろう。僕は母の居ることも気にせずに読み始めた。
ヒデ君へ
ヒデ君、夕べはありがとう。よく眠っているようなので起こさないで行きます。急にいなくなってごめんなさい。
純真なヒデ君にこんなことをお話するのはとても気が引けるのですが、どうしても聞いてもらいたくて書きます。というか、今のあたしには君しか話せる相手はいません。もし途中で嫌になったら捨ててもらっていいです。でも読むからには心して読んでください。読み終わったら、きっとあたしは君の心にずっと居られると思います。
続く