恐ろしいことが起きないように
「え?」
二人同時に声を発した。
――小田が、死んだ……。
「母さん、それほんとなの?」
「ああ。向こうは大騒ぎらしいよ」
ユキさんは酷く具合が悪そうに黙ってうつむいたままだ。
「宮崎さん、あんたには辛いかもしれないけど、小田先生、今日の午前に桃野木駅のホームから快速列車に飛び込んだらしいよ」
小田は朝からずっとユキさんを待っていたのか。来ないユキさんを。そして絶望のあまりに、と言うことだろうか。
「宮崎さん、あんた大丈夫かい? もう休んだ方がいい」
「ああ……」
ユキさんは口に手を当ててその場に倒れこんでしまった。すぐに酸っぱい匂いが広がった。酷く咳き込んで嘔吐している。
「あ、あんた、まさか!」
「ユキさん!」
「ちょっと。ヒデ! 電気付けて。早くっ!」
僕は慌てて照明のスイッチを入れた。エントランスの真ん中で口を押さえてうずくまるユキさん。床には薄黄色い吐しゃ物がこぼれている。
「ごめんなさい、大丈夫、大丈夫です」
「立てるかい?」
「はい。立てます。玄関汚してすみません。すぐ掃除します」
「いいよ。わたしがやる。ふらふらじゃないか。あんたはもう休みな。話は落ち着いたらまた聞かせてもらうよ。ヒデ、宮崎さんを部屋に連れて行くよ」
「わかった」
その時母は僕を手招きして呼び寄せ、耳打ちした。
「いいかい。おまえ、朝まで宮崎さんに付いていてやりな。しっかり見守るんだよ。わたしが行くより今はあんたの方が彼女もいいだろう。何かあったらすぐに知らせておくれ」
見守る? どういう意味だろう。
立って歩くことさえおぼつかないユキさんを、僕は右側から、母は左側からしっかり支えてゆっくりと部屋へ連れて行った。支えることを止めたらきっとこの場に崩れ落ちてしまいそうだ。
「ヒデ君、いつもごめんね」
ユキさんは僕の方を向いて小さな声で言う。
十五号室のドアの前で、母はエプロンのポケットから合鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。軽く鍵は回る。
ドアを開け、母が壁のスイッチを入れる。蛍光灯が瞬いて、家具で埋め尽くされた部屋が現れる。
「宮崎さん、手を洗ってうがいした方がいい。気持ち悪いだろう。着替えはどこだい?」
ユキさんはベッドを指さす。ベッドの上には水色のパジャマが置いてある。
「着替えさせるからあんたは外で待ってな。終わったらすぐ呼ぶよ」
そう言われて僕は否応なく外に追い出されてしまった。
少し経って母に呼ばれて再び部屋に入ると、ユキさんはすでにベッドに入っていた。
「今日はもう何も考えずにゆっくりおやすみ。わたしはこれで帰るから」
「ほんとにご迷惑ばかり掛けてすみません」
「いいよ。休みな。それと嫌かもしれないけど、ヒデはここに置いて行くから。ヒデ、何かあったらすぐに知らせるんだよ」
ユキさんはじっと僕の顔を見る。でも何も言わない。母はそのまま部屋を出て行ってしまった。
またユキさんと二人きりの夜になった。でも今夜はあの時とは事情が違う。事情? ああ、やっと母の真意がわかった。見張れ、と言うことか。恐ろしいことが起きないように。
「ヒデ君」
か細い声が僕を呼ぶ。
「はい」
「今夜はもうお部屋に帰りなさい」
「……僕、ここに居たらダメですか?」
「あなたが心配しているようなことはしないわ」
「でも母さんから言われているので」
「わかったわ。じゃあね、一つお願いがあるの」
「はい」
「こんな時間だけど、音楽掛けてくれない? 小さい音でいいから」
「レコードですか?」
「ううん、カセットテープよ。スイッチを入れて再生ボタン押すだけよ」
言われるままに僕はアンプの電源を入れた。インジケーターが数回点滅し、ピキンと金属音が鳴る。そしてカセットデッキも電源を入れ、再生ボタンを押した。
さーっと言うテープ独特のノイズの後、木目調のスピーカーから小さくピアノの旋律が流れ出した。ドビュッシーだ。
「あ、これレコードじゃなかったんですね」
「ええ。あたしはクラシック聴かないのよ。これはそんなあたしでも楽しめるようにって、〝あいつ〟が作ってくれたテープよ」
あの夜、小田の車からも聞こえていた。ドビュッシーが形見になったわけか……。
続く