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もうクビは避けられない

 今朝、僕は美芳館を出るユキさんを見かけた。ブルージーンズにブラウスといった、いつもの出で立ちで、その後姿を見送るだけで声を掛けることができなかった。

 ユキさんは、夕べあんなことがあったにも関わらず、普段と変わらず不自然な様子はなかった。だから単に仕事に行くのかと思った。しかし今考えると引っ掛かる。僕も長くここに住んでいて、出入りする看護師たちの勤務事情を大体把握している。ユキさんの昨夜のシフトは準夜勤だったはずだ。夜中に帰って来て、翌朝すぐに日勤はありえないだろう。

 結局その日は、朝、ユキさんは美芳館を出たものの病院には出勤していなかったらしい。昼間に病院から母あてに掛かって来た電話は、まさにユキさんの所在を確認するための電話だった。そして小田も同じ。もっとも小田の場合は夕べから行方不明だが。

 だから山田さんを含めた、事情を知っている人の多くが、今日、示し合わせた二人がどこかで落ち合い、最悪、そのまま駆け落ちでもするかもしれないと予想していた。ところが……。

 その後、午後九時を過ぎて、山田さんに病院から連絡があった。僕と母はその電話に二人して聞き耳を立てていた。

「おばさん、宮崎が通常通り夕方から準夜勤、出ているそうよ!」

 受話器を置いた途端に山田さんが言う。

「ええ? 本当かい? 小田先生は?」

「小田先生は無断欠勤だそうです」

「無断欠勤? と言うことは、今日は二人いっしょじゃなかったってことかね」

「ええ。病院の担当の人が宮崎に聞いたら、小田先生のことは知らないって言ったらしいわ」

「自宅にも戻ってないんだろうかね?」

「ええ。帰っていないそうです。あれからまた小田先生の奥様から病院に電話があったらしくて……。それと、宮崎、病院に辞表を出したみたいです」

「それだけ大事になったらもうクビは避けられないね」

 母は眉間に皺を寄せながらうんうんと頷いた。

「ええ。でも彼女、上から辞職を勧められる前に、すでに辞表を準備していたんですって」

「意思は固いってわけだね。しかしね、わたしゃ同じ女として悲しいよ。いつの世でもどこでもさ、痴情話って言うのは男女同罪って言うけどね、損するのはいつも女の方だ。体も、心も、お金のこともそうさ。まったく」

 本当にその通りだと思った。母もきっとその昔、被害を一方的に被ったに違いない。その顔には憎悪が滲んでいた。

「今夜宮崎さんは準夜ってかい?」

「ええそうみたいですね」

「今夜は戻って来るかねえ」

「おばさん、私も宮崎のこと、どうこう言える立場じゃないわ」

「どういう意味だい?」

「も、もし彼女がいなかったら、今渦中の人は、私だったかもしれないし、たぶん、私以外にもね、きっと……」

 山田さんは言葉の途中で急に嗚咽を漏らした。一体山田さんに何があったのだろう。今この目の前にいる大好きな山田さんまでが小田の犠牲者なのか!

「ほんとに最低な野郎だ!」

 吐き捨てるような母の言葉が耳に残った。

   

    ⒒

 

 内容など頭に入るはずもなく、ただ、参考書の活字を目で追い続けていた。彼女の辛そうな顔ばかりが浮ぶ。僕は本を閉じ、立ち上がって部屋を出て、階下へと降りた。

 スリッパに履き替え、一階廊下奥のトイレを目指す。途中ユキさんの部屋の前で立ち止まった。じっと扉を見る。摺り硝子窓は真っ暗で人の気配はしなかった。

 そして僕は部屋には戻らず、そのままエントランスでユキさんを待つことにした。帰って来るかどうかはわからない。それでも待っていたかった。

 壁の時計が午後十一時の消灯を知らせる。館内見回りの時刻だ。事務室のドアが開き、母がエントランスに降り立つ。目が合う。母はちらりと見遣るだけで何も言わず、サンダルに履き替えてそのまま僕の前を通り過ぎ、慣れた手つきで玄関扉に鍵を掛け、カーテンを引いた。それから扉の横のスイッチを切る。同時に天井のシャンデリアが消え、エントランスに薄闇が広がった。わずかに扉上の非常誘導灯の緑だけがぼんやりと辺りを照らしている。

 母は再び振り返るが今度は僕の顔さえ見ずに、いつものようにスリッパに履き替えてそのまま廊下に向かった。僕も何も言わず、母の後ろ姿を見送った。

 奥の方からパチンとスイッチを切る音が聞こえ、廊下も暗がりに包まれた。母は常夜灯だけを残してすべての照明を消して回り、火の元と施錠を確認する。

 それは僕が生まれる前から毎晩継続されて来た大切な仕事だった。未だに母はこの仕事だけは僕には頼まず、自分で行うようにしていた。

 僕は再び上がり框に腰を下ろした。非常口と書かれた緑の誘導灯が、微妙に明暗を繰り返していた。そろそろ交換時期なのだろう。

 十分ほどして、背後の階段をゆっくり下りて来る足音が聞えた。振り返ると、母が手にした懐中電灯で僕の顔を照らす。咄嗟に片手で目を覆う。

「おまえ、この薄暗い中に、そんなとこで座ってると、帰って来た子がびっくりするだろ!」

 僕は黙ってゆっくりと立ち上がった。母がようやく僕に向けた言葉は、労いでも同情でもなく、叱責だった。確かに母が怒るのもわかる。

 でも僕は何も答えず、再び腰を下ろした。母ももう何も言わずに管理人室へと消えた。

                                   続く

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