宮崎ユキを出せ!
「ヒデ、あんたあっちでもこっちでもモテモテだね。将来が楽しみだ」
「そんなんじゃないよ」
「あ、おばさん。ヒデ君から聞いたわ。夕べは大変だったみたいね」
「ああ、まあね。しかしこの子にこんなに強情なところがあったなんてあたしも驚いたよ。で、ヒデトシ、あんたなんで半べそかいてるの?」
僕は慌てて目を擦る。
「それだよ。それが母性本能くすぐっちゃうんだね」
「あはは。それでね、本当はヒデ君に聞かせられる話じゃないんだけど、本当に宮崎のこと好きみたいだし、ここまで深くかかわっているなら知る権利もあるかなって思うので」
事の経緯は次の通りだった。
今日の昼、病院に小田先生の奥さんが「宮崎ユキを出せ!」と怒鳴り込んで来たらしい。尋常ではない大声でまくし立てて、しまいにはわんわん泣き出したらしく、その場に居た関係者はおろか患者までがその様子に驚いて大ごとになった。
奥さんは昨日の夜まで、小田が職場の看護婦とそういう仲になっていることも、いや、もっと言うなら、誰かと怪しい関係になっているということさえも気付いていなかったらしい。
そんな気の毒な奥さんは生まれながらにして相当な良家の子女だった。幼い頃より大事に育てられ、不自由な思いなど一度もしたことがなかった。
よく言えば純真、悪く言えば世間知らずのお嬢様だったので、まさか自分の愛する夫が自分を捨てて他の女に走るなどとはこれっぽっちも考えないし、普通に見ていればわかりそうな浮気の兆候にさえ何の疑いも持たなかった。
だからこそ、裏切られた時の落差は計り知れない。病院での大立ち回りも納得が行くと言うものだ。それは今まで順風に生きて来た彼女の前に突然降って湧いた不幸だった。
その奥さんの話によると、実は小田は、昨夜ユキさんを美芳館まで送って来た後、家には戻らなかったらしい。小田の頭の中はユキさんのことでいっぱいで、すでに妻のことも子供のことも、仕事のことさえも入る余地はなかった。やはりあの時、母が出て行ってガツンと言えばこんなことになっていなかったのかもしれない。
母の言葉を借りるなら、男も女も人間である限り、生きていれば一度や二度はこんな時がきっとあるのだろう。だが小田の場合、そのタイミングが悪すぎた。
小田は「俺、もうそこへは帰らない」そう言って自分の帰りを待つ妻に電話を掛けたらしい。最初奥さんは、急患か何かでどうしても帰ることができなくなったのかと思った。けれどよくよく聞くとそうではない。好きな女性ができたので彼女といっしょに居たいがために、もう家には戻らないと言う。温かい夜食を用意して今か今かと小田の帰りを待つ奥さんにはまったく予想外のことだった。
また面倒なことに、山田さんの言うには(ここが一番大変なところだが)奥さんの父親は小田の在籍していた医大の教授であり、小田はその教え子だった。しかも病院の現副院長の地位にあった。
小田がわずか四十そこそこで外科部長にまでなれたのは、もちろん実力もあったかもしれないが、実はこの義父の力によるところが大きい。
病院で大騒ぎする副院長の娘。職員も、飛んで来た警備員もさぞやその対応に困ったことだろう。しかし対応した職員はけっして出まかせを言ったわけではない。
ユキさんは本当に病院にはいなかった。係りの者が、今日のシフトを確認すると、準夜勤となっていた。そう説明しても、奥さんは「あんたたちみんなグルなんだろう。隠すのか、すぐに宮崎ユキを私の前に連れて来い!」と、えらい剣幕で怒鳴りまくったらしいが、本当にいないものはどうしようもない。
何とかその場は慌てて呼び出された父である副院長が収めたらしいが、これで済むわけがない。
続く