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僕もここに居たくない

 その次の日。昼過ぎに一本の電話が掛かって来た。母あてに病院からだった。

 僕が取り次ぐと、母は「いいえ、いませんよ。朝出て行きました」と答えてすぐに電話を切った。たったそれだけの会話だった。僕はすぐ隣で聞いていたが、その時は別段気に留めることもなかった。

 夕方、僕が管理人室に座ってテレビを見ていた時だ。小窓をコツコツとノックする音が聞こえた。ふと見ると、山田さんがいつものやさしい表情で立っている。この穏やかな顔を見ているだけで僕はとても癒される。

 窓を開けると、山田さんはにっこり微笑みながら、「これ」と小さな紙袋を差し出した。見覚えのあるデザインだ。それは病院の前にある有名な洋菓子店の紙袋だった。

「食べて。ヒデ君、好きでしょ。松月堂のプリン」

「ありがとう」

「おばさんいる?」

「あ、今、晩ご飯作ってます」

「そう。じゃあまた後から来るって伝えておいて」

 山田さんは夕べの経緯を知っているのだろうか。どうも知らなさそうに見えた。

「あの、山田さん」

「ん?」

「宮崎さん、ここ、出るらしいです」

「そう。ヒデ君も知ってるのね」

「はい。その事で聞いてもらいたい話があって」

「いいよ。話して」

「いや、ちょっとここでは」

「わかった。じゃあ今からうちの部屋、来る?」

「いいですか?」

「いいよ。おばさーん! ちょっとヒデ君、借りるよ!」

 山田さんは小窓から首だけ突っ込んで奥の台所にいる母に向かって大声で叫んだ。

 すると母はエプロンで手を拭きながらこちらにやって来た。

「ああ、おばさん」

「何? 山田さん、どしたの?」

「母さん、僕ちょっと山田さんの部屋にいるから」

「もう晩ご飯できるよ。食べてからじゃダメなの?」

「わかった。じゃあ食べたらすぐ行きます」

「おばさん、わたしもおばさんにお話があるんだけど」

「宮崎さんのことだね? そいや今日の昼に病院から宮崎さんはいますかって電話があったよ」

「ああ、やっぱりここに電話があったんですね」

「うん。まあとにかく晩ご飯片付けてからわたしもあんたの部屋へ行くよ。ヒデもどうせ宮崎さんのことだろ? まったく美人はいつでも台風の目だね」

 そして僕は夕食をかき込んですぐに山田さんの部屋に向かった。

「わたしはここ片付けたらすぐ行くからって山田さんに言っておいて」

「わかった」

 よかった。ちょっと母のいる前では話せない。


 山田さんの部屋へと向かう。

 いつものように山田さんの部屋は開けっ放しで、間口のカーテンから白い蛍光灯の光が暗い廊下にまで洩れていた。レースのカーテン越しに見える山田さんは、どっかりと畳に座ってテレビを見ている。僕がさっきまで管理人室で見ていたのと同じお笑い番組だった。

 カーテンの外から「山田さん」と声を掛けると、彼女はゆっくり振り向いて、のっそりと立ち上がり僕を迎え入れてくれた。蚊取り線香の匂いが部屋に漂っていた。

 ここに来ると、とても落ち着く。確かにユキさんの部屋に行った時のようなドキドキもワクワクもないけれど、なぜか安心できる。居心地の良い部屋だ。

「おばさんは?」

 山田さんは、僕の方を見ずに、冷蔵庫から麦茶を出してコップに入れながら言った。

「片付けたら来るって言ってました」

「そう、どうぞ」

 山田さんは僕の前に冷たい麦茶を置いて、それから手を伸ばして扇風機を僕の方へ向けた。

「あ、すみません」

「ううん、今夜は蒸し暑いね。風がないから夜になってもちっとも涼しくないわ」

 僕は頷き、開け放った窓の外を見た。生垣の向こうに見える隣家の窓もやはり開け放たれていた。

 蚊取り線香の匂いに混じって僅かに外から土の匂いがしていた。

「で、話しって?」

「ええ……」

「あ、待って」

 山田さんは僕の話を遮ってテレビのスイッチを切った。一瞬、白い蛍光灯の光がパッと滲んだように感じた。そして夏の夜の部屋は静寂に包まれた。

 それから僕は、山田さんに夕べのエントランスでの経緯を話した。

 母がユキさんに退居を迫ったこと。僕がその間に割って入って、ユキさんは悪くない、小田にしつこく付きまとわれている被害者であると、一生懸命に擁護したことなど、その一部始終をすべて話した。 

「ふぅん、そんなことがあったんだ」

「お願いします。山田さん、どうかユキさんを出て行かないように説得してください。どうかお願いです。この通りです」

 山田さんの腕にすがり、頭まで下げて頼んだ。泣きそうだった。山田さんはやさしく僕の髪を撫でながら言う。

「ヒデ君。そんなに宮崎のことが好きなの? まあそんな気はしていたけどね。あの子も本当に罪な子」

「好きです。ユキさんがいなかったらもう僕もここに居たくない」 

「まあ、そこまで? でもかわいそうだけどそれはもうできないのよ。私では、いいえ、私以外のどんな人でもね、もうとても修復できないところまで話は行ってしまったのよ」

 山田さんはまるで独り言を呟くように何度も頷きながら言った。

「遅くなってごめんよ」

 母は外から声も掛けずに急に部屋に入って来た。僕は慌てて山田さんから離れる。それを見て、母がにやりと笑った。

                                    続く

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