ユキさんが出て行く
「宮崎さん。これ以上あの男と関係を続けるならわかってると思うけど」
「わかりました」
「わたしだって辛いんだ。同じ女だからね。気持ちはわかる。どうしようもできないことがあるのもわかる。でもさっきも言った通り、わたしはここを守らなきゃならないんだ。これは最後通告だ。明日までによく考えて答えを出しておくれ。きれいさっぱり別れるか、それともここを出て行くか。二つに一つだ」
「おばさん、ごめんなさい。今月中には出て行きます」
即答だった。ユキさんが出て行く! ここからいなくなる。もう会えなくなる。そう思った時、心の奥から湧き起こるユキさんへの熱い思いを止めることはできなかった。気が付けば僕は、ドアを開けてエントランスに飛び出していた。
「母さん、ダメだ。宮崎さんを追い出さないで」
母は驚いて僕を見た。
「あんた、こんな時間に何やってんだ。子供には関係ない。さっさと寝な!」
「嫌だ。ユキさんは悪くない!」
僕は怯まない。
「ユキさん?」
「全部あの小田ってやつのせいだ。ユキさんは小田の家庭を壊したくないから、自ら身を引くつもりでわざわざうちに引っ越しまでして来たのに、小田はそんなユキさんの気持ちなんか気にも留めずに、ただ自分の欲望のためにしつこくユキさんに付き纏っているだけだ!」
「ヒデ、あんたが何でそんなこと知ってるのさ?」
「何でって……」
「ヒデ君、ありがとう。でももういいよ。もう決めたわ。ここを出る。今度こそ病院も辞めて、誰も知らないところへ行くわ。わたしがここにいる限り、彼はやって来るわ」
「ヒデ、あんたはちょっと黙ってな。話がややこしくなるよ。宮崎さん、あんた、遊ぶんならもっと上手に遊びなよ」
「すみません。彼とのことは……彼のことは、遊びなんかじゃなくて、だから」
「遊びじゃない? 彼に奥さんも子供さんもいるのわかってて付き合ってたんだろ? それとも妻子と別れさせて結婚でも?」
「いえ、彼とのことは、あたし自らのこの手で終わらせるつもりです」
「ほう」
「明日、すぐにでも転居先を探します。ご迷惑をお掛けしてほんとに申し訳ありません」
「ああ、それがいい。あんた器量もいいし、若いけど芯もしっかりしてる。あんたならこれから良い男はいくらでも現れるだろうから、もっといいのを選んで幸せにおなりよ。あんたなら大丈夫だ」
「わかりました。ありがとうございます。ヒデ君もありがとう。引っ越しが決まったらまたお知らせします」
それだけ言うとユキさんは廊下へと向かった。
ユキさんが美芳館を出て行く! ユキさんが僕の前からいなくなる。僕は悲痛な思いで彼女の後姿を見送った。今すぐ後を追いかけたい衝動を抑えるのに必死だった。その時、隣で母の声がした。
「ヒデ」
僕はゆっくりと母の方を向く。母は怒ってはいなかった。それどころか不思議に微笑んでいた。
「ほんと、山田さんの言った通りだ。あんた、ついこの間まで子供だと思っていたのに、いつのまにか男の顔になってるよ」
「母さんごめん。僕、母さんの知らないところでユキさんからいろいろ話しを聞いているんだ」
「あやまらなくていいよ。あんた、宮崎さんのことが好きなんだね」
僕は思わず俯いてしまった。
「人を好きになるっていいことだ。まあ、あの子美人だからね。しかしお前にもこんなに情熱的なとこがあったなんてねえ。ほんと、その怖い物知らずの馬鹿さ加減。若い頃の父さんそっくりだ。わたしももう一度あんたぐらいの年に戻りたいよ」
母さんはしみじみと言う。褒めているのか、けなしているのかよくわからない。
「けどね、よくお聞き。別に宮崎さんを庇うわけじゃないけど、男と女ってね、当たり前にわかっていても、頭ではダメって理解していても、どうしようもできないことだってあるんだよ。あんたももう少し大人になったら嫌でもわかるよ」
薄暗いエントランスで、母さんはふっとその目元に憂いを浮かべた。僕は母さんの子供としてではなく、一人の人間として、男として初めて認められたのだと思った。
昔、母さんと父さんの間にもいろいろあったことを知っている。母さんは死んだ父さんの本当のお嫁さんじゃない。僕も父さんと苗字が違う。そんなこと僕は今まで「ふーん」程度のことだと思っていた。子供だった。けれど今、ようやくその重みに気付く。母さんは、かつて自分が大変な苦労をしてきたからこそ、若い宮崎さんにはその苦労を味合わせたくないのだと思った。
それから母さんは部屋に戻って、父さんの仏壇の前で座って手を合わせ、まるで父さんに話し掛けるようにぼんやりと遺影を見ていた。その背中がずいぶんと小さくなったと僕は感じた。
続く