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嫉妬の炎

 そのうちにユキさんの小さな寝息が聞こえ出した。

時間だけが静かに過ぎてゆく。僕は眠れない。窓の外が仄かに白み出し、ユキさんの端正な横顔がぼんやりと浮かび出した頃、雨音に交じってどこかで鶏の鳴く声が聞こえた。否応なく朝はやって来る。


  10


 看護師たちの噂によれば、結局ユキさんと小田との関係はずるずると続いているらしい。母はとても憤慨していた。小田にはもちろんのことだが、いつまでも関係を断ち切れないユキさんに対しても同じくらい怒っていた。そしてユキさんに対する母の態度は徐々に硬化していった。

 ようやく長かった梅雨も明けた七月のある夜のことだ。深夜一時過ぎ。僕がいつものように二階の自室で勉強していた時のこと。

 小さなエンジンの音が遠くで聞こえた。それは徐々に大きくなり、はっきりこちらに近付いていることがわかった。大体の予想は付く。僕は勉強の手を止め、南側の窓に歩み寄った。

 階下でアスファルトを踏みしだく車の音が聞こえた。窓から下を見ると、ちょうど小田のステーションワゴンが美芳館の前で停まったところだった。

 この頃ではユキさんが準夜帰りの時は、ほぼ決まって送ってもらっているようだ。どうせ今夜もまたユキさんのきれいな体と心があのケダモノに踏み躙られたのかと思うと、僕はただただ悔しかった。

 ハザードランプの明滅が辺りを黄色く照らし出す。向こう側のドアが開き、ユキさんが降り立つ。するとすぐこちらの運転席のドアが開き、小田が急いでユキさんの傍に駆け寄った。先日の夜の光景が脳裏を過ぎった。助けなきゃ。瞬時にそう思った。

 ところが、次の瞬間、僕は見た。

 道の真ん中で小田がユキさんの腰をしっかり抱き寄せ、強引にキスをしているではないか。ショックで倒れそうだ。

 腹の奥底にめらめらと湧き上る嫉妬の炎。悔しくて悲しくて涙が出そうだ。あまりに酷い仕打ちだった。心の中で何度も名前を呼んだ。

 その時、階下の管理人室で足音が聞こえた。母だ。母が管理人室の扉を開けてエントランスに降りようとしていた。

 慌てて部屋に引き返し、母が出て行くのを確認すると、再び階段を降り、管理人室の扉の陰に身をひそめて外の様子を窺った。

 暫くするとカチャカチャと音がして、非常口の鍵が外側から開けられ、ユキさんが姿を現した。それを薄暗いエントランスで待ち構えていた母が声を掛ける。

「宮崎さん」

「あ、おばさん、ただいま」

「宮崎さん、あんた、今かい? 随分遅いね」

「遅くなってすみません、申し送りに時間が掛かってしまって」

「申し送りねえ」

 ハザードランプの派手な光がカーテンを黄色く照らしている。そして、まるで狂犬の唸り声のごとく、車のアイドリング音が玄関の中まで低く鳴り響いていた。

 母はつかつかっと扉に近付き、明滅を繰り返すカーテンを右手で少し引っ張ってその隙間から外の様子を窺った。たぶん母には逢瀬の後の別れを惜しむ小田本人の姿まではっきり見えたのだろう。小さく舌打ちしてユキさんの方を向き直り、そして声を低くして言った。

「わたしがあれほど言ったのに、宮崎さん、まだあんた」

「すみませんおばさん」

「あんた、あいつから逃げるためにわざわざここへ引っ越して来たんじゃないの? 何だったら出て行ってガツンと言ってやろうか?」

 ユキさんはだまって首を振る。でもこんな時の母は本当に怖い。こうやって母はここの風紀を、美芳館を守って来たのだ。今までも何人もの若い女性が母の逆鱗に触れてここを去って行った。

 男をこっそり連れ込んだ人。妊娠した人。そしてユキさんのように職場で不倫してそれがうちに住む看護師たちに悪影響を与えかねない場合など。僕は今までそんな人たちをたくさん見て来た。そしてほとんどが皆、同じ結末を迎える。

 家賃の遅延や滞納、あるいは騒いで他の住人の迷惑になるぐらいはかわいいもので、大抵、母がきつく叱れば解決したが、こと異性関係のトラブルは厄介だ。いくら叱ろうが説得しようが本人たちはまったく聞く耳を持たない。

 悲愴な面持ちのユキさんに対して母のきつい言葉が飛ぶ。その声だけで十分怖い。

「わたしはね、あんたたち若い子をここで守らなきゃいけない。国の親元から信頼されて大切に預かった娘さんたちだからね。そうじゃなきゃ顔向けできないだろう。まああんたの場合は親元じゃなくて、病院のお偉いさんと周旋屋からだけれど。あの時。周旋屋であんたもわたしに助けてくれって頼んだはずだろう? 本当は親元も保証人もいない人はお断りなんだけど、どうしてもって頼まれたからわたしは引き受けたんだ。それがあんた自ら、これどういうことさ?」

 ユキさんの目からは大粒の涙がこぼれていた。

 母さんお願いだ。もうユキさんをこれ以上責めないであげて。ユキさんは悪くない! 怒る相手が違うよ。僕は心の中でそう叫びながら、今すぐにでも飛び出して行きたい気持ちを必死で抑えた。

 けれども母さんの怒りの矛先はまだユキさんに向けられたままだった。

                                    続く

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