あたしのことぎゅっとして
僕は頷き、そしてユキさんの右隣に潜り込んだ。枕からユキさんの強い匂いがする。それはいつもの匂いじゃない。でもとてもやさしい香りだ。人間が生きている匂いに違いない。香水なんかじゃなく、ほんとのユキさんの体臭は僕に深い安らぎと幸福感を与えてくれる。
「あ、ごめん、電気消してくれない? その紐引っ張って」
僕は一度ベッドから抜け出して蛍光灯の明かりを消した。真っ暗なユキさんの部屋。雨音に交じって壁の向こうから深夜ラジオが微かに聞こえている。そして僕は再びベッドに潜り込んだ。
「おやすみ」
暗闇にユキさんの小さな声が響いた。
目覚まし時計が薄暗い中に緑の仄かな光を浮かび上がらせていた。あれから三十分だ。蒸し暑い。体が汗ばんでいた。僕の汗がユキさんのベッドを汚してしまうのではないかと思った。体はこんなに火照っているのに、頭の芯だけが冴え冴えとしている。
とその時、沈黙を破ってユキさんの小さな声が聞えた。
「ね、もう寝た?」
「いいえ」
「……眠れない?」
「ええ」
「あのね、一回でいいから……」
ユキさんは上体をゆっくりと起こして僕の方を向く。体制を変える度に髪のいい匂いがする。
「一回でいいからさ、あたしのことぎゅっとしてくれない?」
「え?」
驚く僕に構わず、ユキさんは覆いかぶさるように身を寄せる。
僕は遠慮がちにユキさんの首に腕を回し、恐る恐る抱き締めた。ユキさんも僕の背中に手を回し、まるで小さな子供が母親につかまるようにぎゅっと抱き付いた。頬と頬が密着する。ユキさんの吐息を感じる。
その頬はしっとりと濡れていた。僕は彼女が声も出さずに泣いていたことにようやく気付いた。暗闇の中で、僕にぎゅっと抱き付きながら静かに泣いていたのだ。
その時僕は、僕自身が小田の身代わりなのかもしれないと思った。僕から見れば、小田は憎むべき男だ。でもあいつは、小田は、ほんの片時でもユキさんの、どこへも持って行き場のない淋しさを紛らわすことができたのかもしれない。ユキさんが小田を愛しているなんて思わない。それでも、ほんの一時でも、ユキさんの心に空いた穴を埋めることができたのだろう。
僕は小田の身代わりだ。でもいい。それでもいい。たとえどんなにつまらない男の身代わりだったとしてもかまわない。今だけはずっとこのままでいたい。僕の隣にいるのは正真正銘のユキさんだ。それだけでとても幸せだ。そしてどうかユキさんにも幸せが訪れますように。心からそう祈った。それから朝が来ないようにとも祈った。
壁の向こうからどこかで聞いたことのあるメロディが小さく聞こえていた。
「音楽が聞こえる…」
「ああ〝煙が目にしみる〟ね。とても古い曲だけど、いい選曲だわ」
そう言うとユキさんは僕の唇にやさしく唇を合わせた。なんてやわらかい唇なんだろう。それは僕のファーストキスだった。
雨の音が少し大きくなった。僕はもう一度ユキさんの肩に回した腕にぎゅっと力を込めて抱きしめた。
「ありがとう。もっと若いときに君に会いたかったな……」
耳元でユキさんは囁いた。消え入りそうな声だった。
「ユキさん、小田のこと好きなんですか?」
こんなこと聞いたらいけない。きっと嫌な思いをさせる。けれど聞かずにはおられなかった。ユキさんはしばらく黙ったまま、じっと天井を見つめていた。きっと答えたくないのだろう。僕もあきらめて仰向けになる。と、その時、小さな声で、でも、とてもはっきりとユキさんは言った。
「わからない。けどあいつに抱かれているとき、その瞬間だけは悔しいけど生きている気がするの」
「僕にはわかりません。そんな気持ち」
「そうよね。君にもいつかわかる日が来るかな。でもあいつのこと、好きじゃないわ。いいえ今は……」
言葉が切れた。ほんの数秒の空白。
――殺したい……。
僕はユキさんの方を見た。
「冗談。冗談よ。さあもう寝ましょう。おやすみ」
「おやすみなさい」
でも僕にはその一言が冗談だとは思えなかった。それから昼間のトイレでの出来事や、雨の中でライトに照らされた小田の顔や、ユキさんの化粧を落とす姿など、様々なことが頭の中に浮かんでは消えた。
続く