真夜中のユキさん
「え?」
「ううん、何でもない。何でもないの。そんな怖い顔しないでよ。からかったのは悪かったわ」
「僕、怖い顔してますか?」
「してる。おあいこよ。私のパンツ持って行ったでしょ」
「そ、それは……」
「ねえ、興奮した? あたしのパンツ触って、匂いも嗅いだでしょ? もしかして履いてみた?」
「履いていません」
「ほんとかな」
「に、匂いは嗅ぎました。でも履いていません」
「あはは、匂い嗅いだんだ。で、興奮したのね?」
「しました。ごめんなさい」
「ふふ、正直でよろしい。よし、終わった」
ユキさんはパタンパタンと鏡をたたんで化粧箱をひょいと持ち上げ、タンスの上に載せた。
僕にはさっき一瞬ユキさんの呟いた「嘘よ」がどうにも心に引っ掛かっていた。
ユキさんはコーヒーカップを片手に持ったまま、じっと壁のポスターを見つめている。その横顔の化粧を落とした薄い眉や、少しぼんやりとした目がなぜか僕には怖かった。
たとえば、僕を叱責するような理由のはっきりとした怒りに対する怖さではない。いったいそれがどこから生まれて来たのか、何に対して怖いのか、そんなこと一切わからない、そんな漠然とした恐怖だった。それは僕の知らないユキさんに違いない。唐突に〝真夜中のユキさん〟と言う言葉が僕の中で生まれた。
コツン、と陶器とガラスが触れ合う音が沈黙を破り、僕はふと我に返った。ぼんやりしていたのはたぶんほんの数秒のことだろう。ユキさんはカップから手を離し、ゆっくり僕の方を向き、そして言う。
―――別に、いいよ。
「え?」
「興奮したっていいって言ってんの」
「え?」
「ふぅ。みんなそうだもの。男はみんなそう。みんなあたしのこの体が好きなのよ。ああ、あたし……男だったらよかったのに」
「それは違います。僕は、僕は、僕は違う。全部が、ユキさんの何もかも全部が、好きです」
もう自分でも何を言っているのかわからなかった。ただ何か言わなければ壊れてしまいそうだった。
「ありがとう。それほんと? 本心から言ってる?」
「もちろんです。本当の本心です」
「そっか。嬉しいかも。君はあたしが今までに会った男とはちょっと違うのかもね」
ユキさんは僕をじっと見つめる。憂いを秘めた眼差し。その口元が僅かに動いた。
「ね、聞きたい?」
「え? 何をですか?」
「あたしが、どうして、国に帰れないのか」
「僕なんかが聞いても?」
「うん。何でだろう。君には素直に話せそう。きっと君の若さのせいかな」
「僕の若さですか」
「ええ、十五でしょ? 君」
黙って頷く。
「あたしが君と同じ十五才の時に、クラスに好きだった男の子がいたの。似てるのよ。君を見ているとその彼を思い出すわ」
「お付き合いしていたのですか?」
「ううん、お互い好きだった。でもできなかった。お別れしたわ。ねえ、こんな私の最低な話だけど聞いてくれる? それとももう眠い?」
「いいえ」
時折強い風が吹いて、雨脚が窓ガラスをザザッと叩いた。ベッド横の目覚まし時計はもう午前三時になろうとしている。僕はユキさんと二人きりで、この狭い空間で時を同じにしている。しみじみと不思議なことだと思った。
ユキさんは話し始めた。僕はじっと耳を傾けた。
「あたしにはね、父親が二人いたのよ。最も父親だなんてあたしはこれっぽっちも思っていないけどね。最初のあたしの父はね、あたしが物心付く頃にはすでにいっしょに住んでいたから、たぶん本当の父だと思うんだ……ああ、ごめん、こんな話聞きたくないよね?」
ユキさんは何度も僕に確かめる。
「いいえ」
「じゃあ聞いて。この話を聞いた後でもまだあたしを好きだって言うんなら、たぶん本物かも」
僕は冷めたコーヒーの残りを口に含み、一気に咽に流し込んだ。さっきよりさらに苦い。
「――父はね、重度のアル中でおまけに乱暴者だった。家庭内暴力ってやつ。まあアル中と家庭内暴力は大体ワンセットなんだけどね。毎日仕事もせずに、朝から飲んだくれて、あたしが見ていることなんかお構いなしに母を何度も殴ったのよ。最低だった。けど、あたし、本当は何にもできないお母さんのことも心の中で酷く蔑んでた。もう親なんてどっちもいらないって思っていたらね、あたしが十才の春に父が死んだわ」
そこでユキさんはカップに残ったコーヒーを飲みほした。雨音に混ざってラジオの声が小さく聞える。僕はただ黙ってユキさんの目を見る。彼女は一瞬、視線を逸らした。
「――うちの裏山にね、大きな山桜の木があるのよ。たぶん樹齢何百年もの大木ね。毎年春になったら見事な花が咲くのよ。その夜、珍しく父はしらふだったわ。そして真夜中に一人家を出て、その満開の桜の木によじ登って、紐の端と端を太い枝と自分の首に括り付けて、勢いよく飛び降りたの。翌朝、ぶら下がったままの父の頭や顔や体じゅうに無数の白い花びらが付いていたんだって。でもね、父はすぐには死ねなかったらしくて、苦しかったんでしょうね。ぶら下がりながら、必死で首に巻きついた紐をはずそうともがいて、でもはずれなくて、木から降ろされた時には、指は血まみれで爪の間には皮と肉が詰まっていた――大丈夫? 顔色悪いよ。まだ聞く?」
「ええ、大丈夫です」
空っぽの胃袋の中でコーヒーが暴れていた。ユキさんは淡々としゃべる。その表情は、別に悲しそうでもなく、辛そうでもない。ああ、これは昼間にトイレで見た時と同じ目だと思った。〝真夜中のユキさん〟に違いない。
続く