その手の白さに心惹かれる
「うん。好きよ。山で生まれ育ったからかな。あたし、海が好きなの。小さい頃ね、お母さんに連れられて初めて大分の海を見た時すごく感動したわ。あれ以来海の、それも青い色の虜になったのよ」
僕は頷き、青い掛け布団の上にそっと腰を下ろした。ベッドは思ったより硬かった。
ユキさんが毎晩ここで眠っている。きっとあの青い枕にユキさんは頬を埋めて眠っている。掛け布団の上にはやはり水色のパジャマが脱いだままの状態で置かれていた。これもユキさんの一部だ。それに触りたいと言う衝動が湧き起こる。
「君はこの部屋に初めて入った男性よ」
そう言った時、ケトルが鳴り、ユキさんは慣れた手つきでドリップコーヒーを淹れる。
――この部屋に初めて入った男性……。
僕は何度もその言葉を繰り返す。
そして、コーヒーを淹れる、そのユキさんの横顔と、何気ない所作をうっとりと見ていた。
「なあに?」
ユキさんはちらりとこちらを見る。
「いいえ、何でもないです」
「うふふ、君は好奇心の塊ね。あたしも君ぐらいの時はそんなだったかな……。眠い? ごめんね、こんな夜更けに付き合せて」
「いいえ。とってもいい匂いがします」
「コーヒー、好きなの? あたしも好きよ」
「いえ、コーヒーじゃなくて、この部屋も、宮崎さんも」
そう言った瞬間、頬が熱を帯びるのを感じた。
「まあ、おませさんね。コーヒーはブラックだけどいい? おませさんにはちょうどいいか。はいどうぞ。モカよ」
ユキさんはにっこり微笑みながら青いマグカップを差し出した。
「ええ、頂きます」
光沢のある青い陶器のカップを持つユキさんの、その手の白さに心惹かれる。
手渡されたカップから白い湯気がゆらゆらと上がっていた。黒く艶のある液体でカップは満たされている。たしかに良い香りだ。
「熱いから気をつけてね」
僕は頷いて息を吹きかけながら少しすすった。コーヒー牛乳しか飲んだことがない僕にはユキさんのコーヒーは苦かった。でも少し緊張がほぐれたように感じる。山田さんの部屋には何度も入ったことがあるけれど、同じ異性の部屋なのに、あそこはまったく緊張しない。どちらかと言うと母の寝室に入った時に似ている。
もう一口、僕は我慢してコーヒーを口に含む。口いっぱいに苦みが広がる。無理やり飲み下す。大人の味……。
「ちょっと失礼するわね」
そう言ってユキさんは、ラタンのチェストの上に置いてあった黒塗りの木箱をコトンとガラステーブルの上に置いた。木箱の上蓋を立ち上げて左右に開くとそれはおもちゃみたいな三面鏡になった。不思議な化粧箱だ。
ユキさんは瓶に入った透明な液体をガーゼに染ませて、そして慣れた手つきで目の周りを拭い始める。見る見るガーゼが黒くなる。
「ね、君、好きな子とかいるの?」
ユキさんは鏡を見ながら言う。その化粧を落とすユキさんの顔を不思議なマジックでも見ているようで僕は目が離せない。
「ねえって、聞いてるの?」
「あ、はい」
「お化粧落とすのがそんなに不思議?」
「あ、看護師さんはあまりお化粧してるの見たことないので」
「そうね、していない人も多いわ。どうせしても大きなマスクで隠れちゃうし。でもあたしはするよ。いつも誰かに見られてるって思うと気持ちがしゃんとするでしょ」
誰かとは? ふといらない考えが首をもたげる。
「ねえ、あたしの質問に答えなさいよ。君、好きな子は?」
「あ、はい、いません」
「うそ。君かわいいからきっと学校ではもてるでしょ?」
「い、いいえ」
「そんな緊張しなくっていいよ」
「でも……」
「ね、ここへ呼ばれて叱られるって思った?」
「はい」
「そうねえ、昼間のアレはダメだわ。あんなことしたら怒らない人いないよね」
「ごめんなさい。でも、でも……」
「でも、何?」
「いえ、いいです」
「どうしてあたしが知っていたかって? でしょ?」
「あ、はい」
「君、全部顔に出るのよ」
「え? 顔に?」
「あはは、ウソ。あたし始めっから見ていたの。あたしが帰って来た時、後をこっそり付いて来たでしょ? あの時の君、とってもおどおどしてて、まさかとは思ったけどね。その後、洗い場から慌てて逃げて行く君の後ろ姿をこっそりね。すぐピンと来たから洗い場に行って見たのよ。そしたらね、一番お気に入りのやつがないじゃない?」
「じゃあ、全部知っていて?」
「そう、戻しに来たこともね。君はきっと返しに来るって思ってたわ。一生懸命とぼけていたようだけど、あたしあの時トイレでさ、思わず笑いそうになって君の顔を見ていられなくって……」
「あ、それで窓の方を向いたのですか?」
「そうよ。唇ぐっと噛んで笑いを堪えるの必死だったのよ。でも本当にさあ、トイレの隙間から覗く? 君も驚いたでしょうけど、あたしも予想が当たって逆にびっくりしたわ。ああ、あれはおもしろかったな」
「ああ……。ごめんなさい」
「いいよ。許してあげる。あたしもちょっとからかってたのよ。君のこと。純情な君を見ていたら何かいじめたくなっちゃうのよ。きっと年の離れた弟がいたらこんな感じなのかな」
「弟……」
と、その時、一瞬、ユキさんの顔から微笑みが消えた。
「嘘よ……」
続く