ユキさんの部屋
「え? 今からですか?」
「そう。今からよ。少しお話ししましょう?」
僕は返事をする代わりに、ユキさんの傍に近付き、上がり框の上に置かれた彼女の通勤用のバッグを持った。けっこう重い。ユキさんはちらりと僕の顔を見る。でも何も言わない。少なくとも怒ってはいないみたいだ。いつもの無表情、いつものユキさんの顔に戻った。いくら土曜の夜とは言えこんな遅い時間にユキさんの部屋に行くなんて。でも少し嬉しかった。
薄暗い廊下の突き当たりには蛍光灯が一つ灯り、侘し気な光りを落としていた。僕とユキさんは足音を殺してその光を目指して歩いた。
――もうすぐ十五号室だ。
「あ、バッグ返して」
「はい」
重いバッグを手渡すと、ユキさんはすぐに中から真鍮の鍵を探し出して鍵穴に差し込む。そして音もなく扉が開かれる。
「さ、入って。狭いけど」
ユキさんの声にならない低い声が耳元で聞こえた。
何度も背後を振り返り、誰も見ていないことを確認するとようやく僕は部屋に足を踏み入れた。ふと管理人室奥の寝室で眠る母の顔が一瞬浮かび、慌ててそれを打ち消した。
ドキドキしていた。僕は胸の高鳴りを抑えるので精一杯だ。
部屋の間取りは皆同じ。入ってすぐ半畳ほどの炊事場。左にタイル貼りの小さな四角い流し台とその隣にマッチで火を点けるタイプの一口コンロがある。
コンロの上にはステンレスのケトルが載っていた。
ユキさんはすぐに壁に手を伸ばし、手探りでスイッチを入れると、蛍光灯が数回瞬き、部屋は明るくなった。
ここはとてもいい匂いで溢れている。正真正銘のユキさんの匂いだ。部屋の空気に淡い色が付いているような錯覚を覚える。
「さあ、そんなところに立ってないで、遠慮せずにお入りなさい。今お茶淹れるから」
ユキさんは部屋に入るなり、すぐにコンロの火を点けた。
殺風景な土壁に掛けられた一枚の大きなポスターパネルが僕の目を引いた。きれいな山と草原のポスターだ。一片の雲もない真っ青な空の下、鮮やかな緑一色の草原の真ん中に一本の道路がまっすぐ正面の山に向かって伸びている。そのポスターの右下に小さく漢字で書かれた地名を声に出して読んだ。
「ひさずみ高原?」
「あはは、くじゅうよ、久住高原」
ようやくユキさんが笑った。
「どこですか?」
「九州。大分県よ」
「きれいなところですね」
「ええ、とても良いところ。あたしの生まれ故郷よ」
そう言ったユキさんはポスターをじっと見ながら少し悲しそうな顔をした。そういえばユキさんは以前、もう田舎とは連絡が取れないと言っていた。部屋に故郷のポスターを飾るなんて、何があったかはわからないけれど、望郷の思いはずっと持ち続けているのだと思った。
これまでも僕は電球の交換やちょっとした雑用とか、母からの頼まれごとなんかで、ここに住む多くの人の部屋を見て来た。でもここまで物の多い部屋を見たことがなかった。いや、多いどころか物で埋め尽くされている。
おしゃれな開き戸のクローゼット、かわいいラタンのチェスト。専門書や教科書がぎっしりと並んだ本棚、スタンドミラー、部屋の三分の一を占めるベッド、小さなガラステーブル、そして一際目を引くのは、白い犬のロゴが入った大きなステレオラック。中には最新のセパレートステレオにたくさんのLPレコード。そして部屋の両端に木目調の大きなスピーカーが一台ずつ置かれている。もう畳がほとんど見えない。何もなくて、ごろりと横になれる山田さんの部屋とはずいぶん違う。そう言えばここにはテレビだけがなかった。
「ね、ほんとに狭いでしょ。あたしちょっとテーブル使うから、そうね、君はベッドにでも腰掛けて」
ユキさんは僕の顔を見ながら、少し照れ臭そうに言った。
「あ、はい……」
テーブルは向かい合わせに二人座れない。とは言え、ベッドに腰掛けるなんて恐れ多くてできない。
わずかな沈黙が二人の間に流れる。ふとどこかで微かな響きが聞こえていた。
「声が聞こえますね」
「ああ、深夜ラジオよ。隣からね。ここ壁薄いから。でもあたしも音楽聴くから文句は言えない」
「じゃあ話し声も」
とまどう僕にユキさんはまるで楽しんでいるように言う。
「ええ、そうね。あのね、君ももう声変わりしてるから、男、連れ込んだって思われちゃうかも」
――男……。
「ねえ、いつまでそこに突っ立てんの? いいよ、そこ座んなさいよ。なんかさ、君のその情けなさそうな顔見てるとね、学校で宿題忘れて廊下に立たされてる男の子みたいじゃない」
ユキさんはベッドを指差しながら言った。ふかふかでやわらかそうなベッドだ。薄い掛け布団が半分めくれ上がり、布団とおそろいの枕も横にずれていた。色はどちらもマリンブルーだった。
「青、好きなんですね」
そう言った時、脳裏にあの青い下着がふっと浮かぶ。僕は刹那、ユキさんから目を逸らした。
続く