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やっぱり部屋に来なさい

 雨脚がまた少し強くなった。ふと隣のユキさんを見る。街灯に照らされたその前髪から雨の粒が滴っていた。でも違う。彼女の瞳は濡れている。雨じゃない。あれほど嫌がっていた男をやっと追い返したのに、ほっとすることはあってもなぜ泣くのだろう?

「あの、風邪引きます」

 その言葉に彼女は何も答えず、ただ一度頷いて玄関へと向かった。僕もすぐにその後をついて行く。何か声を掛けようと思ったけれど、僕には言葉が見つからなかった。

 すぐ前を行くユキさんは、後ろ髪を無造作に括り上げ、黒のTシャツにジーンズと言う普段着姿だった。門灯のおぼろげな光の下、大きく露出した白い首元にいくつもの雨粒が付いていた。手を伸ばせばそれに触ることもできる。その髪からはシャンプーの匂いがした。

 目の前の白いうなじを見ていると、なぜか泣きたくなった。なんだろうこのモヤモヤした気持ちは。今まで味わったこともない感覚だった。悲しくて悔しくてたまらない。

 さっき二階の窓から小田といっしょの車に乗っていたユキさんの姿を見た時にはあまりのショックで後頭部がざわざわと震えた。自分の気持ちが整理できなかった。

 ――どうしてユキさんが小田と! こんな夜中に! しかも小田のあの横柄な態度はなんだ。僕がどうしてあんな奴に文句を言われなければならない? 今頃になって悔しさがふつふつと湧き起こる。

 やり場のない怒りは、捨て台詞を残して行った小田に向けられる。僕はすぐにでも小田を殴ってやりたいと思った。

 美芳館の門限は夜の十一時。それと共に照明も落とされる。入り口の大きな観音開きのガラス扉は時間になると、母が内側のブラインドを下ろすので外から中は見えない。もちろんそれだけでなくきっちり施錠もするので外からは開かない。

 夜の遅い看護師たちは、皆、非常口の鍵を母から預かっている。ユキさんも正面入り口には目もくれずに、すぐ横の非常口に回り、カバンをまさぐって鍵を探した。

「あ、開いています」

「そう」

 ユキさんが大きなダイヤモンドみたいなドアノブにそっと手を掛ける。僕が先ほど慌てて出て来た非常口だ。ドアは音もなく開いた。エントランスは電気が消えていて薄暗く、非常口の頭上に設置された誘導灯の光りだけが、ぼんやりと辺りを緑色に浮かび上がらせていた。館内はしーんと静まり返り、外の雨音だけが、耳に届いていた。

 壁の時計は午前二時になろうとしている。

 ユキさんは、二十センチほどの上がり框に腰を下ろして、靴を脱ごうと踵に手を掛けたけれど、一旦手を踵から上げてただぼんやりと座っている。

「ふぅ……」

 薄暗い中にユキさんの溜息みたいな声が小さく聞えた。今のユキさんは昼間、トイレで僕に居丈高な物言いをしたユキさんからは程遠くて、とても繊細に思われた。昼間の出来事が現実ではないようにさえ感じられる。

 あれからユキさんは仕事に出掛けたのだろう。そして病院で小田と会い、仕事を終えて、ここまで車で送ってもらったのだろう。いや、ちょっと待て。それにしては時間が合わない。遅すぎる。

 今まで、ここに住む多くの看護師たちといっしょに暮して来た僕の知る限り、彼女たちの病院では、日、準夜、夜の三つのシフトがある。もし今夜のユキさんが、夕方からの準夜勤だとすれば、もう少し早く、おそらく、どんなに遅くとも十二時には戻るはずなのに、もう午前二時だ。

 病院からここまでは徒歩でも十分あれば帰ることができる。と言うことは、ユキさんと小田の間には二時間の空白の時間があったはずだ。いや、もし最初から仕事ではなかったとしたら……。僕の頭の中で様々な思いが交錯する。

 ユキさんはじっと上がり框に座り込んで動かない。緑色のぼやけた灯りに照らされたユキさんの頬は濡れている。僕はそこから目が離せない

「あの……」

 ユキさんがゆっくり僕の方を向く。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 彼女の前に立ち、なるべく周囲に響かないように声を殺して、深々と頭を下げて言った。謝って済むとは思わないけれど、謝らずにはおられなかった。

「え? 何?」

「あの、お昼のこと」

「ああ、いいよ。もう。気にしてないわ」

 ユキさんはおそらく無表情で、僕の顔を見上げて言った。今はもうそんなことどうだっていいと言う雰囲気がありありと漂っていた。

「あの、じゃあもう部屋に行かなくても」

「しつこい! だからもういいって!」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

「ふー。こっちこそごめん。君を責めるつもりはないの。ほんとはね、いえ、何でもないわ。それよりさっきはありがとね」

 やっと少しだけ微笑む。でもまだ瞳は涙で濡れていた。

「ユキさん、あ、いえ宮崎さん、その、大丈夫ですか?」

「あたしの名前、覚えてくれているのね」

「はい。ごめんなさい」

「ううん、あやまらないでいいよ。うれしいよ。ありがとう。でもあたしはもう大丈夫。さあもうお休みなさい」

「はい」

 僕が部屋に戻ろうとした時、再び背後からユキさんの声が聞こえた。

 ――あ、待って。

 僕はゆっくり振り返る。

「やっぱり部屋に来なさい」

                                    続く

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