雨の庭
9
夕方から天気は下り坂で、陽が落ちてからポツポツと降り出した雨は、夜半になっても降り止まない。明日は朝から雨だそうだ。
時刻は午前一時を過ぎた。窓のすきまから部屋に流れ込む雨の匂いはますます濃くなっている。結局まだユキさんの部屋へは行っていない。何度も行こうと思った。でも行けなかった。ただ時間ばかりがいたずらに過ぎて行く。
あの時、トイレでユキさんは僕を許さないと言った。逃げても無駄だと言った。そして必ず部屋へ来るようにと言った。行ったらどうなってしまうのだろう。逆にこのまま行かなければ、たぶん僕はもうここにはいられない。つまり、それがユキさんの言う「君はもう断れない」と言うことなのだろう。やはり行くしかなかろう。でも今夜はもう遅い。明日、必ず行こう。そしてもう一度、きちんと男らしく謝ろう。
と、その時、美芳館の南側から小さく車のエンジン音が聞こえた。この周辺は大きな通りから少し離れた閑静な住宅街で道幅も狭く、こんな真夜中に車を乗り入れるのはこの辺りの住民か、あるいはタクシーで帰って来た酔っ払いぐらいだ。
エンジン音はだんだんと大きくなり、やがて美芳館の前でピタッと止まった。
「うちか……」
僕はそう呟くと、立ち上がり、南側の窓辺に近付き、こっそりと階下の様子を窺った。
ほぼ花が散り終えたソメイヨシノの向こうに、一台の大きなワゴン車が停まっていた。生い茂る葉っぱの隙間から明滅を繰り返すハザードランプの黄色い光が漏れ出していた。その中に薄っすらと白い筋が無数に見える。雨が音もなく降っていた。
右側のドアが開き、誰かが車から降りたが、ここからではちょうど木の陰になってよく見えない。何やら男女の言い争うような話し声が聞こえる。
車の前を回り込んでこちらに人の姿が見えた。ヘッドライトに照らされたその姿。その顔。なんとユキさんだ。こちら側のドアが開いて男が慌てた様子でユキさんに迫った。その男の横顔に見覚えがあった。以前、よく山田さんを夜中にここまで送って来ていた外科医の小田だった。ユキさんが付きまとわれて困ると言っていた小田だ。でもなぜそんな小田の車に彼女は乗っていたのだろう。
「お願い帰って! もう来ないで!」
はっきりと二階にまで届くユキさんの震える声。
「おい、おい、待てよ、宮崎君!」
「いやっ!」
小田がユキさんの手を掴んで無理に車に連れ戻そうとしていた。僕は慌てて玄関へと向かう。母は一階の奥の部屋で寝ている。起こすべきか。いや、そんなヒマはない。僕はそのまま靴も履かず、スリッパのまま外へと飛び出した。思ったより雨脚が強い。
美芳館のエントランスを出たところで二人は押し問答の最中だった。エンジン音が低い唸りを上げている。
「離して! お願い、帰って。送ったら帰るって言ったじゃない!」
腰を低く落としてまるで綱引きのごとく両手首を引っ張り合う二人。大きなワゴン車のハザードランプが明滅する度にその姿を黄色く浮かび上がらせていた。
と、その時、ユキさんがこちらを見た。僕に気付く。眉間に皺を寄せ、何か思いつめるような悲しげな表情をしていた。
昼間、あのトイレで見た怖い顔のユキさんじゃない。ピアノの旋律が聞こえている。小田の車の中からドビュッシーが聞こえている。僕はすぐに駆け寄った。
「あの、すみません、夜中なのでもう少し静かにしてもらえませんか?」
「何だお前は?」
ユキさんの手を引っ張っていた小田が僕の方を睨みつけながら言った。その目つきがあきらかに尋常ではないように見えた。
「この子はここの大家さんの子よ。小田さん、迷惑なんです。もう帰ってください」
「何ぃ。話が違う!」
「あの……」
「子供がこんな時間まで何やってんだ! 帰れ!」
「これ以上大声を出すと警察を呼びます!」
「くそ、わかった。帰る。けど、俺はあきらめない。君もそう言ったじゃないか」
忌々しげに小田が運転席のドアを開けると、ピアノの旋律はさらに大きく外に聞こえた。『雨の庭』だ。
バタンと強くドアが閉まり、小田の乗ったワゴン車は走り去った。僕とユキさんの二人は、美芳館の前で、その赤いテールランプが見えなくなるまでずっと黙って見ていた。
続く