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美芳館

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 ――昭和五十一年、春。

 僕の名前は天宮秀俊。()(ほう)(かん)オーナーの息子としてこの家に生まれ、ここで育ち、その年、十五才になった。体のほうはずいぶんと大人びて来てはいるが、心はまだまだ微妙に揺れ動く思春期真っ只中だった。

 美芳館が建てられたのは昭和二十六年春のこと。敷地面積約二百坪弱(六百六十平米)の上に建てられた大きな木造二階建てアパートだった。

 一口にアパートと言うが、美芳館はそこいらにあるアパートとは随分と格が違った。柱、廊下、天井に至るまで素人目で見ても上質だとわかる建材がふんだんに用いられ、果ては階段の欄干にまで細かい彫刻や擬宝珠まで施されるほどの凝りようで、一見して洒落たアーティスティックな西洋館と言った佇まいだった。

 オーナーだった、今は亡き父のその建物に対するこだわりがひしひしと伝わって来る。

 また、ここが建てられたのは、僕が生まれる十年も前のことなので、建てるに当たり、どういった取り決めがなされたのかは詳しく知らないが、現状を見た限りでは、建築基準も随分と甘かったように感じる。現在なら、建ぺい率だとか容積率だとか面倒なこともずいぶんと多く、きっと同じように建てることはもう無理だと思うが、昭和二十六年と言えば、終戦からわずか六年のこと。ようやく世の中が戦後の復興に本腰を入れ始めた頃のことだった。

 法整備もまだまだ追いつかない情勢の中、建物に関しても、土地があればそこへ目いっぱい建てることが当たり前の風潮だった。ここ美芳館も例に洩れず、敷地をほとんど余すことなくいっぱいに建てられた西洋館風の大きなアパートだったのだ。


 その佇まいを少し書いてみたいと思う。

 生垣の切れ目にある、人の背丈ほどの石の門柱の間を抜けると、十メートルほどの石畳が玄関まで続いている。

 玄関前のポーチは大理石で、そして玄関の扉は重厚なダークブラウンの木枠に分厚い擦り硝子の嵌った観音開き。開け閉めする度に、カランカランと乾いた音色をベルが奏でた。南に向いた入口はいつも明るく清潔感に溢れている。

 入口から入ってすぐ、十広さのあるホールとなっている。今で言うところのエントランスホールだ。その正面の壁には十五号サイズのどこだかわからない外国の街を描いた風景画が飾られている。そして見上げる天井には、小さいけれど洒落たシャンデリアが人目を惹く。

 ホール左側には小さなカウンターとやはり小さめの窓。カウンターの左端に場違いなピンクの公衆電話がポツンと一台置かれている。カウンターの隣に木製の扉があり、扉の上には〝管理人室〟のプレートが掲げられている。

 管理人室、ここは三畳ほどの広さで、中にはゆったりと座れる安楽椅子と十四型のテレビが備え付けられている。普段はオーナーである母がこの椅子に座って、人が出入りするたびに監視の目を光らせている。言わば守衛室のようなものだ。そして僕の部屋はこの管理人室の奥の階段を上がった二階にある。

 次にエントランス入って右側が居住棟になっている。玄関から入って来た人は、皆ここで靴を脱ぎ、上がり框を跨ぐ。脱いだ靴は横にずらりと並ぶ下駄箱へ。下駄箱は居住者専用の一つずつすべてにパタパタと開閉する蓋付きの物と、蓋無しの物があり、蓋付きの物には各部屋の番号が刻印された、直径三センチほどの丸い真鍮プレートが付いている。

 蓋無しの下駄箱には、木枠に来客用と刻印されたプレートが貼られていた。つまり住人、来客の区別なく、エントランスでの靴の脱ぎっ放しは厳禁だった。建物や調度品はあくまで西洋風だが、土足厳禁なあたりがやはり和風だと思える。

 そして靴を脱いで上がれば、中央に階上へと続く広い階段がある。その欄干には大きくて艶のある焼き栗を逆さに載せたような擬宝珠が目立つ。下から見上げる階段の踊り場にも風景画が飾られていた。 

 階段を正面に見て左側が一階居住棟だった。

 よく磨き込まれた板張りの廊下がずっと奥まで続いている。その長い廊下を挟んで両側に鈍い光を放つ真鍮製のドアノブがずらりと並ぶ。二階も同じ造りで、部屋数は、各階十八部屋ずつ、一、二階全部で三十六室ある。

 各部屋の間取りはすべて同じで、京間六畳に押入れ、それに半畳ほどの炊事場が付く。もちろん浴室もないし、トイレは共同である。扉を開けた途端に、純和風な畳敷の部屋で、その上とても狭い。そこまでの造りとはあまりにかけ離れたギャップに驚く。

 しかし国を出て来たばかりの若い独り者にはちょうど良い。僕は幼い頃から大勢の住人を見て来たが、引っ越して来た時に、大きな家具の類を持参する若者をほとんど見かけたことはなかった。

 布団袋の他には、行李二つか三つに衣類や必要最小限の身の回りの物を詰め込んだだけだ。だから寝る場所さえあればそれでよかった。


 一階、薄暗いけれどよく磨き込まれた長い廊下を突き当りまで行くと、左に共同トイレと右に洗濯場がある。トイレは男子用の小便器が三つ。その背後に個室が三つ。個室の大きい方はかろうじて水洗だがもちろん和式だ。

 そうそう、美芳館の特筆すべき大きな特徴を一つ書き忘れていた。幸か不幸か、その当時、美芳館には僕以外に男はいなかった。つまり女子寮である。そんな女性ばかりが住む中で、僕は唯一の男性だった。

 そして女性専用にも関わらず、立派な男子用小便器が三つもある。それはここが建てられた当時、女性だけではなく男性も住んでいた名残だ。しかし今その男子用小便器を使うのは僕一人だけしかいない。

 そして突き当たり右側、一段降りて共同の洗濯場。ここの広さはおおよそ十五平米ほどだろうか。床はモルタル貼りで、廊下から降りたところに常時木製サンダルが二つ三つ並べてあった。

 ここは物干し場も兼ねているので結構広く、雨の日は多くの住人たちがここに洗濯物を干す。所狭しと干されたその様子はまるで洗濯物のお花畑のようだ。

 男子禁制なので下着だってお構い無しに干してある。地方から出て来た垢抜けしていない女性の下着なんて大体が白とかベージュとかのそれも年配の女性が身に付けるような大ぶりなものなので、本当は色気もそっけもない。

 けれど十五才の健全な男子にとってはそんな下着ですらとても刺激的だった。たまにピンチハンガーに吊るされている赤や黒の派手なやつを目にしようものならそのインパクトたるやそうとうなものだ。  

 初めてそれらを見た時、頭に血が登って一瞬、息ができなくなったことを覚えている。

 洗濯場は北向きでいつも薄暗いが、昼間は窓から射し込む光で多少は明るく感じられた。ただ清潔感はあまりなく、いつも洗剤と湿ったセメントの匂いが漂っていた。

 日が落ちると、途端に真っ暗だ。灯りは天井の二十ワットの蛍光灯のみで、濡れた床のモルタルをわびしい光がぼんやりと浮き上がらせていた。

 洗濯場には二槽式の電気洗濯機と、その隣に深さ四十センチほどの洗濯用のスロップシンクと呼ばれる深型槽が三槽横並びに造作されていた。

 モルタル塗りの上に色とりどりの艶のある小さいタイルがモザイク状に貼ってあるスロップシンクは、毛布や大きめの汚れ物や靴だって洗える。住人の中には郷里から送られて来た野菜を洗う人もいた。とても便利だ。

 しかしこの深い洗濯槽の頑丈さが逆に問題だった。風呂もシャワーもない美芳館では近くの銭湯を利用していたが、夜遅く仕事から戻る人にはその閉店に間に合わない。そのため、夏場などはここで髪を洗ったり、中には人が乗ってもびくともしないことをいいことに、水を張って裸同然の姿で行水したりする人までいた。異性の目がないとやりたい放題だ。

 夏の夜遅く、用を足しにトイレに向かう僕は、そういう場面にたまに遭遇した。

 その頃の僕はまだ小さい子供だったこともあるのだろうが、彼女たちは一瞬驚き、でも僕であるとわかると「あ、やだ、オバさんには内緒にしてね」などと言いながら、別段恥ずかしがる様子もなく、堂々と石鹸の泡にまみれてごしごし洗っている。

 信じられない光景だ。だが事実だった。彼女たちの職業柄、そうせざるを得ない訳もあった。

 幼かったあの時、そんな姿を目撃しても、僕は何とも感じなかった。けれど、彼女たちの白い泡にまみれた肌が、僕の脳裏にしっかり焼き付いていて、今だからこそ、そいつを思い出すたびに、とても罪深い気持ちになる。

                                      続く



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