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 もう止まらなかった。僕は躊躇なく床に突っ伏し、べったりと、頬を床に擦り付けた。微かに尿の臭いがするような気がした。でもそんなこと気にもならない。

 幸いなことに彼女の流した水の音のおかげでこちらの音は聞こえない。タンク一回分の水が流れ切ってもまだチョロチョロと音が聞こえる。

 そっと隙間に顔を近づける。次の瞬間、僕は凍りついた。茶色いユキさんの二つの目が、仕切り板の隙間の向こうからじっとこちらを見ていた。ヤバい! 彼女はこちらを向いてしゃがんでいた。何もかもわかっている。僕は反射的に身を起こした。両肺がはぁはぁと小刻みに収縮を繰り返し、頚動脈を血が駆け昇って行くのを感じていた。全身がわなわなと震えて力が入らない。

 と、その時、カン! と小さな音がした。あまりに興奮した僕の足が白いサニタリーボックスに触れてしまったのだ。

「こらっ!」

 逃げなければ。でもまともに立ち上がることもできない。膝が震えて足に力が入らない。ユキさんは鍵を外し、勢い良く扉を開けて外に飛び出した。木のサンダルの音が大きく鳴り響く。僕は依然として動けない。

 すぐコンコンと扉をノックする音が聞こえた。僕は動けない、僕は答えない。

「出て来なさい!」

 怒りに震えるユキさんの声が響く。ドンドンドン! 今度は激しく扉を叩いた。

「ヒデ君! そこにいることはわかっているのよ。さっさと出て来なさい。でないとおばさんに言うよ!」

 ああ、やっぱりユキさんはわかっていたんだ。初めからこれはユキさんが仕掛けた罠だったんだ。僕はその罠にまんまと掛かってしまった。もう逃げ切れない。僕は覚悟を決めた。

 鍵を外して恐る恐る扉を開ける。古くなった蝶番のきしんだ音がした。目の前には僕より少し背の高いユキさんが、腕を組んで立っていた。今にもビンタが飛んで来るんじゃないかと思うほど、その表情は険しかった。膝がガクガクと震える。

「やっと出て来た。君、自分のやったことわかってるの?」

「ごめんなさい」

「わたしは山田先輩ほどやさしくないからね。許さないよ。どうしてこんなことしたの?」

「どうしてって……」

 ユキさんのその目。怒ったような、悲しいような、いや、もっと心をえぐるような蔑む目が僕をじっと見下ろしていた。

「どうしてって……どうしても我慢できなかったんです。こんなこと初めてなんです」

「だから? 初めてだったら許されるとでも?」

「僕、僕、こんなこと、今まで宮崎さん以外には思ったこともないです。ほんとです」

「ふうん。だとしても、ダメなものはダメなの。覗きは卑劣な犯罪よ」

「どうかもうしませんから。何でも言うこと聞きます。お願いです。許して」

 ユキさんはそんな僕の頭から足の先までゆっくりと眺めた。そして一度、西日の射す窓の外を眩しそうに見て、再び僕の方をゆっくりと向き直り、その薄紅色の唇が静かに動いた。

「ちょっとわたしの部屋まで来なさい」

「えっ?」

「何でも言うこと聞くんでしょ?」

「それはちょっと」

「あっそ。じゃあこれは何?」

 次の瞬間、ユキさんはポケットから青いショーツを取り出して僕の顔先にぐいっと押し付けた。

「これ、君、盗んだよね?」

「…………」

「はっきりおっしゃい」

「すみません、盗みました」

「ただ盗んだだけ? 違うでしょ、何かしたよね?」

「い、いいえ何も」

「嘘おっしゃい。とぼけたってダメだからね。わかるのよ。何したの?」

「それはその……」

「君ねえ、中学生のくせにトイレ覗くは、パンツ盗むは、もうホント、最悪じゃない」

 言葉が出ない。思わず、顔先に出された彼女の手をさっと払いのけ一目散にその場を離れた。何も考えられなかった。差し出された青いショーツが目に焼きついて離れない。

「あっ、こら、待ちなさい! 戻りなさい! 逃げても無駄だからね!君はもう断れないわ。わかってるよね? わたし部屋で待ってるから。後できっと部屋へ来るのよ!」

 背後でユキさんの声が響いていた。母の怖い顔が脳裏に浮かんだ。最悪だ。

                                       続く

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