宝石箱より中の宝石
彼女は洗濯場の一番奥にある人の高さよりも少し低い木の扉の前まで行った。扉には赤に白抜き文字で『非常口』と書かれたプレートが貼られていた。
それは二階のベランダにある共同物干し場へと続く扉だ。災害などの非常時には避難経路にもなっている。常に内側から掛け金錠が掛かっていて、外からは入れない。
ユキさんはそこで籠を床に置き、掛け金に右手を伸ばす。そのまま外すのか思ったら、突然だ。急にこちらを振り返った。
バチンと視線が合う。明らかにこちらを睨んでいる。僕は慌てて前を向く。洗濯槽には澄んだ水が溜まっている。のどの渇きを覚えた。
すぐにカチャッと掛け金を外す音が聞えた。再び横目で追うと、ユキさんは、ひょいと頭を下げて扉の中へと入って行くところだった。僕は再びゆっくりと首を向ける。開け放った扉の向こうは薄暗く、奥に二階へと続く板張りの狭い急階段が見えていた。そこをユキさんは、お尻を揺らしながら上がって行く。僕は目が離せない。登り切ったところに外へと通じる扉がある。扉を開ける。午後のやわらかい光が射しこむ。一瞬、ユキさんの後ろ姿が、紗が掛かったように輝き、すぐに光の中へと吸い込まれて消えた。
そこから出ると屋外物干し場があり、布団や毛布などの大きい洗濯物も干すことができるようになっている。
ユキさんは、先に外干しの大きな衣類を片付けてからこちらの下着類を取り込むつもりなのだろう。たぶんまだ床に置いたショーツには気付いていない。
僕はもう一度床の青いショーツに目を向ける。そいつはまるで今か今かと持ち主に発見されることを待っているようだ。もう一度きちんとハンガーに吊るすべきか、いや、そんなことをしている暇はない。きっともうすぐユキさんは洗濯物を抱えて降りて来るだろう。
怖い。やはりもうここに居るべきではない。
いや、ちょっと待て。僕が盗んだと言う証拠はない。自然に振る舞えばいい。そうだ、とりあえずユキさんの動向を知りたい。だとすれば、隠れる場所は、やはりトイレか。
トイレの扉の陰に隠れていれば、ここから見えることはない。逆に彼女の動きはよく見える。バレなければ、それはそれでいい。黙っていよう。けれども、もしもバレたならば、彼女が激怒して事が明るみに出る前に腹を括って正直に白状しよう。そして素直に謝ろう。そうした方がまだ酌量の余地がある。うまく行けば二人だけの問題で済む。ここへ来て自分の狡猾さと冷静さに我ながら呆れ返る。そして僕は早速トイレに逃げ込んだ。本日二回目だ。
洗面台の後ろに身を潜め、息を殺しながら洗濯場の様子を窺った。暫くしてユキさんが洗濯物を満載した籠を抱えて降りて来た。非常扉の内鍵を閉め、そしてピンチハンガーのところへ向かう。その前でぴたりと歩みを止めた。床に視線を落とす。見つけた! 身を屈めて拾い上げる。大丈夫。ここまではすべて想定内。
彼女は拾い上げた青いショーツをじっと見つめている。心臓がドキドキと高鳴る。息が苦しい。ユキさんは背後が気になるのか、急に後ろを振り返り、きょろきょろと辺りを窺う。そして洗濯機のあるシンク側まで移動して、両手でショーツを広げ、窓から入り込む光にかざした。やおら首を傾げる。
(まずい、まずい、まずい、まずい)声にならない声が口を衝く。いや、汚してはいなかったはずだ。でも何かを感じ取ったのかもしれない。
と、突然、彼女はすぐ目の前の洗濯機の蓋を開けた。さっき僕が慌てて水を注いでいた洗濯機だ。もちろん空っぽで水しか入っていない。しまった! 水を抜いていない! 洗濯槽をじっと見つめるその横顔に不信感が滲み出ていた。
彼女はバタンと蓋を閉め、さっとこっちを見た。僕は思わず洗面台の影にさっと身を隠す。そして彼女はこちらに向かってゆっくりと歩き出した。まずい! まずいぞ。きっとバレた。どうする? もうこうなったら正直に謝ろう。謝るしかない。
しかし僕は、心とは裏腹にサンダルも履かずに真ん中の個室に慌てて隠れた。正々堂々と謝るはずではなかったか? なぜ隠れる? わからない。わからないけれど、とにかく隠れなければ。本能が告げている。隠れろと。
もし見られてないとすれば、入口にサンダルはちゃんと三足並んで置いてあるので、トイレに人がいることはわからないはずだ。カランコロンと音がする。ユキさんは入って来た。前で立ち止まる気配がする。やはりわかっているのか? 万事休すか。
と、その時、パタン! と隣りの個室の扉が閉まった。もしかして僕に気付いていないのか? ただ用を足しに来ただけなのか? 僕が隠れている真ん中の個室を開けなかったのは不幸中の幸いだったのか?
すぐカチャっと鍵を掛ける音に続き、カッ、コロン! とサンダルの音。そしてカチャカチャとベルトのバックルを外す音がする。
すぐにジャーッと水を流す音が聞こえた。ヒモを引いたか。やっぱりそうだ。気付いていない! とすると……。
今まさにユキさんは、薄い仕切り板一枚隔てた向こうでしゃがんでいる。その姿が容易に想像できる。
その時、突然、僕の中でずっと消えることなくちろちろ燃えていた好奇の炎が大爆発した。もう置いて来たショーツのことなどどこか遠く彼方だ。どんなに美しい宝石箱より中の宝石の方が良いに決まっている。僕は仕切りの下、あのわずか三センチに満たない隙間を見つめていた。