返せ。それはお前のものじゃない!
8
自室に戻った。滅多に掛けることのない鍵を掛け、ベッドにごろりと寝転び、天井に向かって一つ、大きく息を吐き出した。そしておもむろにポケットに手を突っ込む。
中指の先に確かな感触があった。でも思っていた物と違う。それは固くてごわごわしている。僕は恐る恐るそれを引っ張り出してみた。
ドキリとした。夢ではなかった。目に鮮やかな青いショーツだ。青と言うよりも、今日ユキさんが着ていたあのワンピースの紺色に近い濁りのない青だ。そしてそれはやわらかい綿ではなく、レース素材だった。
蛍光灯の光にかざして見ると、いくつもの美しい花をあしらった繊細で精巧優美な、まるでそれだけでアートのようだ。値段のことなんかまったくわからない僕にもそれは高価なものに違いないと思えた。そこらのスーパーで売っているような下着とは訳が違う。いかにも宮崎さんらしい。
その時、ふいに宮崎さんの悲しげな顔が浮かんだ。
――返せ。それはお前のものじゃない!
じっとこちらを見ながら言った気がした。今更ながら怖くて、さっと血の気が引くのがわかった。何と言うバカなことをしてしまったのだろう。これはまずい。泥棒じゃないか。しかも下着だ。バレたらとんでもないことになる。騒ぎになる前に戻しに行かなければ。
僕は慌ててベッドから起き上がり、再びポケットへ仕舞おうとした。
その時、(いや、どうせ返すのだから、最後にもう一度ぐらい見たっていいじゃないか。見るだけだよ。大丈夫、大丈夫)と囁く奴がいる。恐怖も罪悪感もこいつの前では赤子同然だ。僕は降ろした左手を再び持ち上げて、そっと右手も添えてじっと見入る。
確かに何度見ても美しい。このアート作品のようなレースのショーツに包まれたユキさんの下半身を想像するだけで僕は息もまともにできなくなる。
しかし、そこじゃない。無数に咲いたブルーの花でもなく、手触りでもなく、もちろんデザインでもないのだ。丁寧に裏返し、幅三センチにも満たないクロッチ部分の端を両手の親指で押さえてゆっくりと引っ張って広げた。そこだけはほかの部分とは違ってやわらかい綿素材でできていた。よくよく見ると、真ん中に一筋、ほんのり白っぽく毛羽立っている。
その微かに白くなった部分をじっと食い入るように見つめる。もちろんそれは見たことがない。でも、きっとここなのか……。僕にはこの青いレースの下着は、まるで光輝くダイヤモンドを包み込む美しい宝石箱のようにさえ感じられる。
思わずそっと鼻に近づける。それは洗い立てのやさしい洗剤の匂いがした。ユキさんのは、きっとこんなにいい香りなのだ。妄想はどんどん膨らむ。僕の中で非の打ち所のない完璧なユキさん像が出来上がって行く。匂いを嗅ぎながら、自然に右手が下半身へと伸びる。
ハッとした。妄想の中の宮崎ユキさんは、僕を恐ろしい眼で睨みつけた。
――この変態! 可愛い顔してるくせに、とんだ変態ね!
ああ、また耳元で宮崎さんの僕をなじる声が聞こえた。これ以上はもうダメだ。母も帰って来る頃だ。それまでにこいつを何とかしなければ。心の奥底にほんの僅かに残った罪悪感がかろうじて右手の悪行を制止した。
僕は、ジーンズのポケットにそれをねじ込んで、再び薄暗い廊下の突き当たりを目指した。
またどこかから美しいピアノの旋律が聞こえている。これは僕の持っているレコードと同じ、モニク・アースのベルガマスク組曲だろう。『月の光』が薄暗い廊下に流れていた。進むにつれ、その旋律は徐々に大きくなる。
それは十五号室の前に差し掛かる頃、もっとも大きくなった。そうか、ユキさんのステレオから聞こえているのか。彼女もドビュッシーが好きなんだ。やっと共通の話題が見つかった。しかし今、僕のジーンズのポケットには彼女の下着が入っている。とても複雑な心境だった。早く元の場所に戻そう。そうするしかない。
なんと長い廊下だろう。十五号室を過ぎ、もうすぐ突き当たり。やっと洗濯場だ。湿ったモルタルの匂いが鼻を衝く。恐れていた永海さんはもういない。
背後から聞こえる曲は月の光からパルピエに変わった。僕は手早く下着をポケットから引っ張り出して、ハンガーに手を伸ばそうとしたが、ここで大きな問題に突き当たった。
ハンガーには、目移りしそうなほど多くのショーツであるとか、ブラジャーであるとか、そんな下着やハンカチなどの小物類がたくさん吊られていたが、それらすべてが宮崎さん流の決まった干し方で統一されていた。
几帳面な性格なのだろう。洗濯物一つにもそれは表れている。ここで僕がこの手にしたショーツを元の位置に戻したとしても、ほかの洗濯物と比べてあまりにも不自然だ。さてどうするか……。
と、その時、廊下の方からスタスタと足音が聞こえた。誰かこっちに来る! もう時間がない! 僕は手に持っていたショーツをハンガーの真下の床にそっと置き、すぐ横の洗濯機の蓋を開いて何食わぬ顔で中を確認するふりをした。
もちろん中はからっぽだ。もし宮崎さんが洗濯物を取りに来て、床に落ちているショーツを見つけたとしても、ピンチの留めが甘くて外れて落ちたと思うはず、いや思ってほしい。
僕はちらりと廊下の方を見た。宮崎さんだ! 彼女はピンクのTシャツにデニムの短パンと言うラフないで立ちで、大きなラタンの籠を抱えていた。洗濯物の回収に来たに違いない。
僕はさっと視線を空っぽの洗濯槽に戻し、給水用の蛇口を捻る。何も入っていない洗濯槽に水が勢いよく注がれる。だが次の瞬間、水道の蛇口からホースがすっぽ抜け、バシャバシャと勢いよく水がシンクを叩いた。僕は慌てて蛇口を締める。
「それ、強く蛇口ひねると抜けるわよ」
驚いて振り向く。大きな籠を抱えながらユキさんが真後ろに立っていた。肌にぴったり密着したシャツに、僕は思わず目を逸らす。
「あ、ああ、そうですね。ホースのゴムがもう伸びてしまって」
「おばさんに交換するように言っておいて」
口調にほんの少しの苛立ちがあった。彼女は僕のわずかな視線の揺らぎを逃さない。きっとどこを見ているのかバレたに違いない。
「はい、必ず」
「お願いね」
それだけ言い残して、カランコロンと僕の後ろを通り抜けて行く。すぐいい匂いがした。僕は思わずユキさんの後ろ姿を目で追いかける。短パンから伸びる、白い足のきれいなこと。
続く