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青いレースの下着

 永海さんは三つ並びの一番奥の扉に消えた。

 西に向いた窓から、五月の陽光がやんわりとその手を伸ばし、濡れたモルタルの床を白く染め上げていた。無数の埃がきらきらと舞い、点いているはずの天井の蛍光灯が鈍くその存在を隠している。

 と、その時だった。背後から〝グァッ〟と言う声が聞えた。

 僕は振り向く。幼い頃にその鳴き声を聞いたことがあった。確か幼稚園の遠足で動物園に行った時だ。あれはガチョウか、あるいは白鷺だったかもしれない。種類は忘れてしまった。人気のあるライオンだとかゾウだとかと違って、その鳥園の前には僕以外誰もいなかった。鳥はまるで模型のように立ったまま動かない。 

 でも僕はなぜかその鳥に親近感を覚えた。先生が呼びに来るまでずっと見ていた。と、その時、その水鳥が低く短く、たったひと鳴きした。今しがた僕の後ろで聞えた声はそれだった。人の声ではない。ましてや十代の女の子の声なんかではない。

 耳を済ませば、セルリアンブルーに塗られた扉の中から、木のサンダルがカツンとモルタルに響き、再び二度ほど、げっげっと鳴いた。すぐに激しく水を叩く音が聞えた。

 ――間違いない。僕の中で、不安が確信に変わる。

「あの永海さん」

 僕はコンコンと扉を叩く。けれど、返事はない。

「あの、大丈夫ですか?」

「はぁはい……ぅ大丈夫だから……」

 ゴホゴホと湿った咳と同時に低く苦し紛れの声が中から聞えた。

「誰か呼んで来ましょうか?」

「はぁはぁ、いい、いいです。ほ、ほんとに大丈夫だから……」

 僕はしばらく扉の前から動けなかった。

「あぁ、このことは誰にも言わないで……もう……お願い、あっち行ってて……」

 絞り出すような永海さんの叫び。僕は怖くなって慌ててその場を離れてしまった。

 永海さんは、さっき入り口で僕と鉢合わせした時に「うわ、最悪!」と思っただろう。でも躊躇などしていられる余裕はなかった。あの時の永海さんの蒼ざめた表情が忘れられない。

 僕は永海さんを酷く傷つけてしまった。ごめんなさい、と心の中で呟きながら、もうこれ以上顔を合わさないように、サンダルの音を響かせながらトイレを後にした。

 再び洗濯場の方を見れば、永海さんの洗濯物が籠からはみ出して無造作に床に置かれていた。近付くと、脱水槽にはまだ取り出し切っていない洗濯物の残りが張り付いていた。のぞき込むと洗濯石鹸の油臭い匂いが鼻を衝く。

 永海さんが戻って来るまでに立ち去らなければならない。帰ろうと振り向いた時、奥の部屋干し竿に、ピンクの綿生地に黒猫の刺繍が入ったTシャツが目に入った。

 竿は平行に二本あり、手前の一本にその猫のシャツが、なぜか竿と水平にこちらにフロントを向けて吊るされている。まるで猫のデザインを見せつけているように思える。

 宮崎さんが着ている部屋着に違いなかった。今日は天気が良いはずなのに、なぜわざわざこんな薄暗いところへ干しているのだろう。僕はきょろきょろ見回しながら、足は自然にそちらへ向く。

 近付いてわかった。猫のシャツの後ろの竿に、洗濯バサミがいくつも付いた円形の小さいハンガーが吊るされている。表からはシャツに隠れて見えなかった。シャツは目隠しだ。

 ゆっくりと裏に回る。そこには色とりどりの彼女が直接、その肌に付ける物が干されている。まるでひっそりとこの薄暗い洗濯場の隅に隠れるように……。

 その中で、青いレースの下着に僕の目は釘付けになった。まぎれもなく宮崎さんの色だと思った。何時間でも見ていたかった。右手の指がぴくりと動く。喉がゴクリと鳴る。

 その時だ、トイレの方からギ―っと扉が開く音が聞えた。永海さんが出て来る! 咄嗟にピンチハンガーから青いヤツをひっつかんでもぎ取った。ジャラッと音がする。そしてポケットに押し込み、一足飛びに洗濯場から廊下に駆け上がり、さっとスリッパを拾い上げて裸足のまま、白い光の射す玄関に向かって、ワックスの行き届いた廊下をただヒタヒタと突き進む。

 どこかで音楽が聞こえる。ドビュッシーの『夢』だった。美しく物悲しいピアノの旋律が耳に届いていた。一刻も早くここから去らなければ……。

 ――ああ夢か。そうだ、これはまるで夢を見ているようだ。すべては夢に違いない。きっともうすぐ目が覚めるに違いない。僕は暗く湿った世界から光溢れる出口に向かって廊下を突き進む。

                                   

                                     続く

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