男女共用トイレ
そして彼女は鍵を取り出す。再びチリリンと鈴の音が聞こえた。それは時間にしてほんの数秒。僕は歩みを緩めない。どんどんと近付く。
と、次の瞬間、僕の気配に気付いた彼女はちらりと首だけこちらを向ける。目が合う。ゆっくりと振り返る。その瞬間「ん?」と片眉を下げる表情の中に一瞬垣間見える警戒心。僕は思わず立ち止まり、引き攣った作り笑顔で「ステレオはどうなりました?」と聞いた。
「ああ、もう自分でやったわ」
「あ、またわからないことがあったらいつでも」
「ありがとう」
にこりともせず、無表情のまま彼女は言った。僕は、次の言葉が見つからない。
と、その時、廊下の突き当りの洗濯場の方からブザーが聞こえた。考えるより早く言葉が口を突く。
「あ、せ、洗濯終わったので」
とにかくその場を立ち去りたかった。
「えらいね。お手伝い」
ようやくユキさんは微笑み、自室の扉を開けた。途端に薄暗い室内から、何とも言えない匂いがふわりと洩れ出す。僕は苦笑いしながら彼女の横を通り抜ける。僕の中の悪魔が暴走する寸前に、彼女は内側から扉を閉め、ガチャりと内鍵の閉まる音が聞こえた。
さて成り行きで、用もないのに洗濯場まで来ると、そこにはすでに先客がいた。こちらに背を向けて二層式洗濯機を覗き込む小柄な後姿。永海さんだった。彼女は先ほどブザーが鳴った洗濯機の脱水層から仕上がった衣類を引っ張り出そうとしていた。
上は襟のある白い綿の半袖シャツ、下はグリーンの短パン姿。それは見慣れたいつもの部屋着――高校時代の夏の体操服、だろう。さっきのユキさんの姿があまりにインパクトが大きかっただけに、どうしても子供っぽく見える。でも逆にホッとする。
永海さんは向こうを向いて、絡みついた衣類を一生懸命に引っ張り出すことに夢中で、僕の存在にまったく気付かない。
声を掛けようかと思ったが、用もないのに洗濯場に何をしに来たのかと勘繰られるのも嫌だったので、声は掛けずにそのまま洗濯場とは反対に位置する男女共用のトイレへと向かった。
ひっそりと息を潜めた休日午後の美芳館の共用トイレ。洗濯場が美芳館の北東角にあるのに対し、共用トイレは北西角にあるので、晴れている午後には西日が入るが、それでも薄暗くじめじめしている。そのため、天井の小さな蛍光灯は二十四時間つけっ放しで消されることはない。
母が、毎朝欠かさず掃除をしているので清潔は保たれている。きっとその内、僕にも掃除を手伝えと言い出すのだろう。
トイレの入口右横には蛇口が三つ横並びの洗面台があり、各蛇口の上の壁面には下部に寄贈名の入った鏡が貼り付けられている。こちらも掃除が行き届いているので曇り一つない。朝、この手洗い台で顔を洗ったり歯を磨いたりする住人も多い。ふと見ると、誰かのコップと歯ブラシが置きっ放しになっていた。きっと母に見つかれば「これ誰の?」と怒られるはずだ。
トイレは入って左に大きい方の個室が三つ。右側の壁には男子の小用の便器が三つ設置されている。この男子用は昔、ここが男女共同だった頃の名残だ。今やこの小便器を使う男子は僕一人しかいない。
トイレも洗濯場と同じく廊下から一段降りたモルタル張りの床で、入口には木製サンダルが三つ並べられている。今、僕が一つ履くので残りは二つ。
サンダルの数を見ただけで誰かがトイレを使用していることがわかる。そんな時には、よほど切羽詰まっていなければ、僕は出直すことにしている。
でもここに住む人たちは、女性しかいないと言うことと、看護師さんなので、用を足すこと自体が当たり前の行為と捉えているのかもしれないが、トイレで僕と鉢合わせしてもまったく気にしていない。逆に僕の方が恥ずかしくなる。
ちなみにトイレは和式で、かろうじて水洗だが、一回ずつ紐を引っ張って流すタイプだ。
個室の扉は少し厚めの木製でセルリアンブルーのペンキが塗られている。内鍵は小さな円柱をスライドさせるタイプで、専門用語で丸落とし、と言うらしいが、取り敢えず掛けましたと言う程度の簡易なものだ。
扉を開けると正面の壁には、『紙以外は備え付けのゴミ箱へ。絶対に流さないこと!』と母の字で強く書かれた注意書きが貼ってある。水の勢いは弱くて、今までにも何回か詰まったことがあって、水道屋を呼んで大変なことになったらしい。
その貼り紙に書かれたゴミ箱――白い金属製の三角ボックスは、角にぴったりと収まって置かれている。僕は最近になるまで、この白い三角の容器が注意書きにある通り、ただのゴミ箱だと思っていた。でもテレビでこっそり『女体の神秘』と言う外国のドキュメンタリー映画を観て、その真実を知り、震えるほどの興奮と女性に対する畏敬の念を覚えた。
さて、せっかくここまで来たのだからと、ついでに小用を足していた、その時だ。背後に人の気配を感じて僕は入り口の方を見る。驚いた。そこに居たのは、さっき洗濯場で見掛けた永海さんだ。
でもどこか普通ではない。顔色も悪い。目が合う。彼女はまるで僕を無視するように、すっと目を逸らした。僕は何かやましいことに気付かれたのかと焦るが、彼女はまったく躊躇することなく、立っている僕の背後をさっと通り抜け、個室のドアを開けて中に入った。勢いよくバタンとドアの閉まる音が聞えた。