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夏のいで立ち

   7


 小田先生の電話から数日経った。

 土曜午後のこと。学校では来週から中間試験に加えて校内模試が開催される。いよいよ受験に向けての準備を本格的に始めなければならない。

 そんなことわかっている。わかってはいるけれど、ここへ来てまったく勉強に身が入らない。これでは志望校のランクも下がってしまう。

 どうにも気になって仕方がないのだ。美芳館はすっかり変わってしまった。それまでは何とも思わなかったのに、あの日、あの瞬間、――ユキさんと初めて出会ったあの瞬間。まるでスイッチがパチンと入ってしまったみたいに変わってしまった。あの時、山田さんの胸が、突然、すごくやわらかそうに見えて、どうしても我慢できなかった。気が付いたら抱きついていた。

 当たり前だけれど、変わったのは美芳館じゃなくて僕の方だ。

 館内の空気さえ何となく生温く肌にまとわりつくように感じる。これまではこんなじゃなかったのに……。

 この閉鎖された空間の中に三十人以上もいる若い女性の、やさしい声や甘酸っぱい匂いや、そしてそのたおやかな体つきや、それらすべてが作り出すこの濃厚な空気が僕をとことん悩ませる。 

 その度に僕は、本来ここに居てはいけないのではないか? と、何とも後ろめたい気持ちになる。

 今や共同トイレ一つにしても、行くだけで緊張する。でも僕がこんなに変わってしまった根本的な原因はユキさんだ。きっとこのまま行けば僕は取り返しのつかないことをしてしまいそうで怖かった。もう彼女のこと以外は何も考えられなくなっていた。いっそ女に生まれていればこんなに苦しむこともなかったのではないかとさえ思う。こんなことを四六時中考える僕は、きっと狂ってしまったんじゃないかとさえ思えた。

 気温は午後になって上がり続け、まるで初夏を思わせる陽気でじっとしていても蒸し暑いぐらいだった。さっき見た昼の天気予報では、明日から天気は下り坂だと告げていた。僕の精神状態もますます低迷している。

 母はいない。土、日になると家を空けることが多い。出掛け間際に「宮崎さん宛てに電話が掛かったら絶対取り次がないように」と釘を刺して行った。

 僕は僕で、テスト勉強をしなければならないこともあったし、これと言って用もないので、ただ母に頼まれるままに管理人室の椅子に座って、一向に頭に入らない参考書を読みながら留守番をしていた。

 カランカランとドアベルが鳴り、僕はふと目を覚ました。どうやら眠ってしまったみたいだ。すぐに生温かい外の空気が流れ込む。正面の柱の時計を見ると午後二時を少し回ったところだ。僕はちらりとエントランスを見る。

 驚いた。宮崎さんだ! ナースの彼女がこんな真っ昼間に帰って来ると言うことは、きっと日勤ではないのだろう。あるいは休みなのかもしれない。

 彼女もこちらを見る。視線が合う。僕は軽く会釈した。僕が座っている椅子には日頃、母が座っていることが多いので、外から帰って来た人は、おおよそ母に挨拶をする習慣があった。でも今日は僕が母の代わりにここにいる。

 僕は管理人室の窓越しに思わずその姿に見入ってしまった。

 碧い海を思わせるような、濃紺の、膝上十センチぐらいの半袖のワンピース姿で、左手には、服よりも少し薄いブルーのハンドバッグを下げている。いつも見掛ける、彼女のトレードマークとも言うべき、肩すれすれでくるりと外に向けてカールしていた髪は、今日は黄色いヘアバンドできゅっと後ろで結び上げられていて、その露出した襟足は驚くほど白かった。全体としていかにも夏を思わせるいで立ちだ。

 館内で見掛ける彼女は、もっとラフな普段着で、ピンクの綿生地に猫の刺繍が入ったシャツをよく着ている。あれはあれでかわいいと思う。でも外に出る時の彼女はまるで別人だ。僕には眩しすぎて直視できない。母の言う、「まるでハリウッドスターみたい」と言うのも嘘ではないと思う。

 彼女は管理人室の方を向いて、母ではなく僕が座っていることを確認すると、カツカツとヒールを響かせて歩み寄った。僕は慌てて小窓を開けると、彼女はにっこり微笑み、そして「この前は電話のこと、ありがとう」と一言だけ言った。でもその目は笑ってはいない。僕は返答に困った。

 すぐに彼女は踵を返し、上がり框まで行くと、すっと屈んで後ろ手でパンプスのホックを外した。きゅっと括れた腰のラインから、藍色の生地にぴったりと包まれたヒップに僕の目は釘付けになる。見てはいけない。でも見てしまう。もう僕の頭の中は宮崎さんで占め尽くされている。

 そんな僕の気持ちをよそに、彼女は靴を下駄箱に片付け、スリッパを履いて、すたすたと廊下に消えて行った。僕は考えるよりも先に、管理人室の扉を開けて飛び出した。

 そしてこっそり覗くと、薄暗い廊下に小さくなる彼女の後姿が見えた。どうにもならない衝動が沸き起こる。なるべく音を立てないように早歩きで追い掛けた。彼女が置いて行った香水の匂いがふわふわと廊下に漂っていた。僕はこれから一体何をどうするつもりか? そんなこと自分でもわからない。あの山田さんの時と同じで、とにかくもう止まらなかった。

 彼女はこちらに背を向けたまま、自室の前で立ち止まり、ぶら下げていた水色のハンドバッグの留め金を外して、中をまさぐる。チリンと鈴の音が聞こえた。しっとりと落ち着いた濃紺のワンピース。その後ろ姿から清艶な大人の女性の色香が漂って来るようだ。


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