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かかってきた電話

 7


 山田さんの部屋での一件からひと月以上が経った。

 春の大型連休も終わり、五月も半ばにさしかかろうとしていた。中学三年の僕は、連休の間も塾通いの日々を過ごし、いよいよ本格的に受験に備えなければならない。それは十分わかっている。でもどうしても勉強に集中できない。

 あれから宮崎さんとは一言も口をきいていない。たまに玄関でばったり会っても会釈程度の挨拶こそするが、どうも気まずくてすぐにその場を立ち去ってしまう。

 今や顔をまともに見ることもできない。もちろん彼女も初日の僕に見せた笑顔とは打って変わって、無表情でどこか冷ややかに見える。そう言えば、結局行かなかった高級オーディオの組み立ては、あの後いったいどうなったのだろう。まあそんなこと僕が心配することではない。

 「あれは事故よ」と山田さんは言う。

 けれど本当にそうだろうか? あの時僕は、自分を見失うほど興奮していた。僕の中では決して事故では済まされない。きっと宮崎さんは僕の心を見透かしているに違いない。僕がこんなに苦しんでいるのに、山田さんはどうしてあんなにも能天気に振る舞えるのだろう。

 ただ、悲しいことは、宮崎さんの姿を見た日には、いや、見なくても、夜になるとどうしても良からぬことを想像してしまう。 

 こんなにも心はポッキリと折れていると言うのに、体は自制が効かない。彼女が初日に見せた意味深な含み笑いやら、ちょっときつい口調やら、あの何とも言えないレモンみたいな匂いやらが、ぐるぐる、ぶるぶると、僕を揺さぶる。僕はきっとどうにかなってしまったに違いない。

 

 そんなある日の夜、一本の電話が掛かって来た。母は夕食の支度で手を離せなかった。電話を取ることに緊張感は拭えないが、ひょっとしたら宮崎さんにかもしれないし、永海さんにかもしれない。ベルを押すことには微かな期待をしながら受話器を取った。

「はい。もしもし。美芳館です」

「わたし、大都医大病院、第二外科の小田と申しますが……」

 知っている人だった。以前、山田さんのところへよく電話して来た脳外科の先生だ。この前母が「あの先生とはどうなっているんだい?」と尋ねたその人だ。きっと山田さんは正式にお付き合いしていたのだろう。

 あの日、小田先生は美芳館のエントランスで山田さんを待っていた。僕は母の後ろに隠れてこっそりその様子を見ていた。少し経って山田さんは、珍しくおしゃれしてよそ行きに身を包み、満面の笑顔で現れた。そして母と一言二言言葉を交わし、二人は仲良く出て行った。玄関のドアベルが、からんからんと乾いた音を立てる。ガラスの向こうに手を繋ぐ二人の後ろ姿が見えた。  

 僕の心に小さな波紋が起こり、それは今になってもまだ消えることはない。つまり僕は今も、小田先生のことを快く思っていない。

「もしもし、小田と申しますが……」

「あ、ああ、山田さんですか?」

 と僕が先に言うと、彼は少し声のトーンを落として言った。

「あ、いや、その……」

「呼びましょうか?」

「いや、君は大家さんの息子さん?」

「ええ。そうですが」

「あの、ちょっと聞きたいんだけど」

「はい」

「そちらにうちの看護師で宮崎ユキって人、住んでますか?」

「!」

 思い出した。どうしよう。どうすればいいのだろう。確か宮崎さんはあの日僕に「誰にも取り継がないで、私がここに居ることは秘密にして」そう言っていた。実家にすらここにいることは内緒だとも言っていた。

 しかし、相手は病院のお医者さんで、しかも彼女の勤める脳外科の先生だ。何か仕事の大事な用かもしれない。いや、もしかしたら人の命に係わるようなことかもしれない。僕は言葉に詰まった。

「もしもし、聞こえました? 宮崎ユキです。いるんですね?」

「えっと、ここには……」

「え? よく聞こえない。いるか、いないのか、ですよ。いたら代わってもらえませんか? 大事な話があるので」

 受話器の向こうから明らかなイラ立ちが伝わる。湧き起こる畏れと不安。

「いいえ、ここにはそんな人、いません! だから、山田さんに代わります」

「いや、いいよ、山田君には代わらなくていい」

「え、でも」

「そっか。なるほど、そういうことね。いいや、また電話します」

 ガチャンと一方的に電話は切れた。これはまずい。きっとここに住んでいることがバレたに違いない。僕は恐る恐る母にその電話のことを報告した。

「あの、母さん。今の電話なんだけどさ」

「ほら、ご飯炊けたよ。先にこれ、父さんにお供えして」

 そう言って母は炊き立てのご飯を仏飯器によそって僕に渡した。僕はお仏壇にそれをお供えしてリンを二度鳴らして拝む。威厳のある父さんの遺影。でも目元は僕によく似ている。

「で? 電話が何だって?」

「ああ、さっきの電話なんだけどね、実は小田さんって言うお医者さんからだったんだ」

「小田、小田? ああ。脳外の先生だね。山田さんの彼氏の」

「あ、いや、それがその、そうじゃなくて」

「え? 違うの?」

「うん。その先生なんだけど」

「何なの? はっきり言いなよ」

「うん。宮崎さんにだった」

「え? どういうこと?」

「僕もその先生が以前山田さんとお付き合いしていたの知っていたからね、山田さん呼びましょうか? って言ったら、山田君には代わらなくていい。ここにうちの看護師で宮崎ユキって人はいるかって?」

「ええ? それでおまえ、何て言ったの?」

「うん。僕、宮崎さんがここに引っ越して来た日に、私がここにいるってことは絶対誰にも言わないでって言われていたからね、だからそんな人いませんって言ったよ」

「そう。よかった。言ってないんだね」

「でもたぶん、バレたかも」

「何で?」

「最後にその小田さんてお医者さん、『なるほどそういうことね』って言ったから。もしかしたら僕の言い方が悪かったからバレたのかも。だとしたらどうしよう」

「あんたはそんなこと心配しなくていいよ。ご飯冷めちゃうからさっさと食べな。母さんが後で宮崎さんに伝えておくわ」

 もう何がなんだかわからない。口に含んだ味噌汁は冷めてしょっぱかった。

                                   続く


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