ピンク電話
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美芳館はトイレと洗面、それと洗濯場が共同だった。そしてもう一つ共同の物がある。それは電話だ。
一般家庭に電話を引くのは当たり前だったが、ここは玄関が一つの共同賃貸住宅だ。以前、母に電話の取次ぎ方を教わった時、「どうしてみんな電話を引かないの?」と聞いたことがある。引けないこともないが、電話機はもとより、その電話番号を取得する権利金が高額なのだそうだ。それでここの若い住人たちは電話を引かない。管理人室前のカウンターにピンクと白のツートンカラーの公衆電話、通称ピンク電話が一台置いてあるだけだった。
管理人の大事な仕事の一つに電話の取次ぎがある。掛ける時も掛かって来た時にも、やはり管理人の仕事となる。まず掛ける時だが、ピンク電話も赤電話と同じで、外に掛ける時、通話は受話器を上げて十円玉をチャリンと投入する。市内通話は当時三分十円と決まっていたが、市外、遠距離は秒単位でカタンカタンと十円玉の落ちる音が聞こえる。大量に必要だった。
面倒なので大抵は100番通話と言う方式を取っていた。電話機の後ろ側の鍵穴に専用の鍵を刺して、ダイヤルで100を回し、出たオペレーターに相手先の番号を伝え、繋いでもらう。そして通話が終わって一度受話器を置いた後、そのオペレーターから折り返し電話が掛かって来て「料金は○○円です」と、教えてくれる。つまり、その場で通話料金を徴収することができたわけだ。地方出身者が多かった美芳館ではそれが普通だった。
夜に座ってテレビを見ていると、ちょうどいいところで「あの、すみません、100番通話お願いします」とやって来る。三十六部屋もあるので一人や二人、必ず実家に電話をするためにやって来る。なぜか、いつもテレビのちょうど良い場面でやって来る。不承不承。家業なので仕方なく応対しなければならなかった。
次に電話が掛かって来た時について。こちらの方が実はややこしい。
管理人室の壁には一号室から三十六号室までのすべての部屋の呼び出しブザーがずらりと並んだ計器盤が設置されている。外から電話が掛かってくれば、母、もしくは僕が出て、当該の部屋番号のブザーを押して取り次ぐことになっている。
もちろん来客が来た時も同じ。僕が取り次ぐ際に、母から言われていたことは、電話であれ来訪者であれ、その人が名乗る、もしくは身元を明らかにしない時は取り次いではならないと言うこと。
そしてベルが鳴ったら住人は速やかに管理人室へ来なければならない。もし望まない電話や来訪があると予想される時には、前もって母や僕にその旨を伝えること。
先日、宮崎さんが引っ越して来た日に、彼女から僕に言われた「私はここにはいないと言って」の意味深な言葉もそうだろう。そう言う断りがなければ母も僕もベルを押す。そして二度押して出てこなければ相手に不在を伝える。
満室なら三十六人も住んでいるのだから、夜間ともなると電話は頻繁に鳴った。それが随分と面倒臭い仕事だと思っていた。
けれど僕は変わった。山田さんの部屋での一件の後、その夜には、誰から教えられたわけでもないのに、初めて自慰も覚えた。そう。あきらかにあの日を境に僕は変わった。
それはまた、自分の生まれ育った環境が普通ではないと気付いた日でもある。何気ない日常が、突然、非日常に変わった日だ。
何十人といる女性の中で、ここにいる男は僕一人だ。それが急に恥ずかしくなり、どう振る舞えばいいのかわからなくなった。でも決してイヤなわけじゃない。
電話が鳴る。受話器を取る。ベルを押す。そして出て来た彼女たちが、僕にやさしく微笑む。その一連の作業は、今までも同じだったはずなのに、僕はそんな彼女たちに好奇の眼差しを向けてしまう。そんな目で見てはいけない。そう思いつつも、その気持ちが抑えられなくなって苦しい。
永海さん宛てに電話が掛かると良からぬ期待をしてしまう。彼女はいつも明るく、そして無意識に女性を振り撒く。階段を降りて来る永海さんの無防備な短パンからすらりと伸びた足や、一段降りる度にゆさゆさ揺れるメロンみたいな胸を目の当たりにする。もう気になって仕方がない。
こちらは降りて来ることを待つことが仕事なわけだから、見ていなければならない。そして目が合う。「電話ですよ」と声を掛ける。永海さんは「ありがとう」とにっこりと微笑む。
――その夜は妄想の中に決まって彼女が現れる。
続く