中学生の性意識調査
――その夜。
「ヒデトシ!」
階下から母の声が聞こえた。あの後、僕は一人とぼとぼと自室に戻り、布団を被ってすっかり落ち込んでいた。
見回すと部屋はもう暗い。すっかり日が暮れていた。いつのまにか眠っていたようだ。
机の上に置かれたデジタルクロックの小さな灯りが見えていた。18:55の表示。薄い壁の向こうでサザエさんのエンディングテーマが微かに聞こえている。
ああ、宮崎さん、幻滅しただろうな。もうおしまいだ。ここには居られない。
その時、コンコン、とノックの音が聞こえた。
「ヒデ君! ごめん、入るよ」
山田さんの声だ。ガチャッとドアが開いて、パチッとスイッチを入れる音が聞こえ、天井の蛍光灯が二、三度ちかちか瞬いた後、部屋は明るくなった。
そこには母とその後ろに山田さんの姿があった。僕が目を擦りながらベッドから体を起こすと、「わあ、やっぱり男の子の部屋だねー」と、山田さんはしみじみと言う。彼女は興味深そうに壁のオートバイやルノアールの裸婦画ポスターを眺めていた。この部屋に山田さんが入って来たのは初めてだった。
「山田さんがあんたに聞きたいことがあるんだってよ」
母は何か含みのある言い方をする。きっと母も知っているに違いない。
そう思って山田さんの方をちらりと見た時、母の後ろで彼女は僕に軽くウィンクした。ほっとした。でも今の僕には母に叱られるよりも、宮崎さんに見られたことの方がショックだった。
「夕食できているから。済んだら降りてきなよ」
そう言って母は出て行った。また山田さんと二人きりになった。ほんの少しの気まずい沈黙の後。山田さんは僕の目をじっと見て言った。
「ごめんね。嫌な思いさせて」
「いえ、あの」
「ユキっちのことなら大丈夫よ。きっちり説明しておいたからね。彼女もいい大人の女性だからそのへんはわかってると思うよ。もちろんお母さんにも言ってないし」
僕はうつむき、思わず頬が熱くなるのを感じた。
「んー、やっぱり君はかわいいよ。小さい時のまんまだ。何にも変わっちゃいない。いい子だ。だからもう気にしないでいいよ」
なぜか泣きそうになった。そんな僕を山田さんはまたやさしく抱きしめてくれる。
「大丈夫。つらかったね。ごめんね」
僕は胸の中でうんうんと頷いた。やっぱり山田さんの胸はやわらかくて温かい。いや、ちょっと待って。さっき姉ちゃんも悪かった。気を付けるって言ってたのは何だったのか。真意を理解できない。
「このことは私とヒデ君だけの秘密。ね? さあおばさんが下で待ってるわ」
山田さんはゆっくりと僕から離れた。
「私、先に降りるね」
「あ、僕も行きます」
何か、こう、大事な物を置き忘れたような、妙なもどかしさを感じながら、僕は山田さんの後から慌てて階段を下りる。山田さんのTシャツから覗く白いうなじが印象的だった。
階下に降りると、母が山田さんに声を掛けた。
「もう話は終わったの?」
「ええ」
「こんなうちの子の話なんて参考になるの? チンチンに毛も生えてないような子供だよ」
「あははは、そんなことないですよー。おばさん心配しなくてもヒデ君も立派な男の子ですって」
「そうかい?」
「そうですよ」
「でもアンタも仕事とは言え大変だ。しかし世の中変わったねぇ。あたしらの子供のころは女子同士が陰で隠れてコソコソやったもんだけどねえ」
え、え? 何、何? 二人は何を言ってるのだろう?
「今は学校でおおっぴらにやるんだね。中学生の性意識調査だって? 山田さんが講師の先生なのかい?」
僕は驚きを隠せない。
「え、まあそんなところです。おばさんもこれを機に、ヒデ君とそう言ったお話もちゃんとされた方がいいかもですねー」
「あはは、男なんて放って置いても勝手にどこかで勉強して来るよ。心配しなくてもね。あんた、そんなことより自分自身のこと……あの先生とはどうなってるんだい?」
「あイタタっ。それはちょっと……」
「それはちょっとって、かなりいいとこまで行ってたんだろうに」
「ええ。まあそうなんですけどね。まあいろいろあるんですよ。じゃ、ヒデ君。またね。ありがとう。とっても参考になったわ」
そう言って山田さんは逃げるように帰って行った。中学生の性意識調査⁈ なんだそれ!
そしてその夜、机に向かってはいるが、受験勉強どころではなかった。妄想の中で山田さんの胸やらお尻やらが僕をいけない所へといざなう。僕には抗う手立てなどなくて、山田さんの温もりの中で例えようもない幸福な気持ちになった。
ところが、いよいよ登り詰めようとしたその刹那、宮崎さんのあの目が、昼間のあの氷みたいに冷ややかな視線が僕を射抜く。え、え、ちょっと、あ! 腹の奥から沸き上がった熱い何かが、脳天から突き抜けて行った。
その時僕はすっかり放心状態で頭の中は真っ白だったけれども、宮崎さんの僕を見つめる目はいつまでも消えてくれない。僕は振り払うように、重い体を起こし、それから汚れた床をごしごしと拭いながら、強い罪悪感で鳩尾がきりきりと痛んだ。
続く