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プロローグ

これは今から半世紀ほど昔の話である。年代で言うなら昭和50年代ごろのこと。敷地面積150坪、木造2階建て、部屋数40。アパートと言うにはあまりに大きな館、美芳館びほうかん。ここは女性専門の賃貸住宅であったけれも、僕の生まれ育った家でもあった。ここで思春期を迎えた僕は、ここに住む若い女性たちから少なからず影響を受けて大人になっていく。

美芳館へようこそ



 プロローグ 


 五月のよく晴れた日の昼下がりのこと。三十年以上連れ添った妻が静かに息を引き取った。享年七十二才。子宮体癌だった。

「力、及ばずで申し訳ありません」

「ありがとうございました」

僕は深く一礼をする。わざわざ病院から家まで看取りに来てくれた婦人科の医師は、申し訳なさそうに頭を垂れて、医者なのに今にも泣きそうな顔をしていた。

 ベッドで横たわる妻は、いつものようにリビングのソファーでうたた寝をしているようで、きっとすぐに目を覚まして「あら、あなた、帰ってたのね」と声を掛けるような気さえする。そのあまりに安らかな表情は、僕に悲しみの感情を忘れさせる。

 ――まるですべての苦悩から解放されたようだ。

 僕はゆっくりと顔を上げ、ベッドの向こうの窓に視線を移した。ずっと向こうに緑に霞む山々が見える。空はどこまでも青く高く、こんな清々しい日に逝くなんて彼女らしいと思った。


 ――半年前。妻の勤務先の病院にて。

「あの、天宮さん、もうおわかりでしょうけれど……」

「ええ、そうね」

「わたし医師になってもう二十年ですが、これほど緊張するインフォームドコンセントは初めてです」

 その婦人科の女医は、数枚のMRI写真を前に、手術を受けるかどうかの判断を妻本人と僕に委ねた。

 妻は何も答えずただ頷いただけだった。やさしい微笑みを崩すことはなかった。

 その婦人科の女医とはもうずっと昔から家族ぐるみの付き合いがある。部屋を出る時、彼女は妻の手を握り、深々と頭を下げて言った。

「医師としてではなく、古い友人として、天宮さん、わたしは、あなたにがんばってほしいと思います」

「ありがとう」


 病院からの帰り道、妻の提案で僕たち二人は病院近くのレストランに立ち寄り、すっかり遅くなったランチを摂ることにした。運ばれて来た日替わりランチを目の前にしても僕は箸にも手を伸ばさずにぼんやりと料理を見つめていた。

「ねえ、すいてないの?」

「え?」

「お腹。食べないんだったらわたしが食べてあげようか?」

 僕の目の前に置かれた手付かずの皿を見ながら彼女は言う。

「え、あ、いや……」

「ねえ、聞いて。わたしね、あなたにはとても申し訳ないけれど、手術も受けないし、苦しいだけの延命治療もお断りします」

 やはり妻はいつものやさしい口調で言う。けれどその表情からは確固たる信念を感じさせる。僕は二度ほど軽く頷き、無理やり料理を口に運んだ。味はしなかった。

 彼女は看護師長まで勤め、六十才で第一線こそ退いたが、それ以後もつい最近までフリーランス看護師を続けていた。

 勤続年数で言うなら軽く五十年を超えるベテラン看護師だ。だから助かる見込みも少ないのに、苦しいだけの手術や、あるいは器具を内部に挿入して直接放射線治療を行う患者たちの姿を彼女は嫌と言うほど見て来た。僕は妻からその辛そうな様子を度々聞かされて知っている。

 おそらくあと十才若ければそれに臨んだかもしれないが、結果として妻は緩和ケアのみを望み、自分の命の終焉を静かに迎えたいと思ったのだろう。だから僕は何も言わなかった。いや言えなかった。


 妊娠経験のない女性は、そうでない女性より子宮体癌の発症率が高いのだそうだ。

 これも妻から教えてもらったことだ。それが彼女の子宮癌の原因だと決め付けることはできないが、実際、僕と妻の間に子供はいない。  

 妻は元看護師長だったが、熟練の助産師でもあった。現場では親しみを込めて〝取り上げバアちゃん〟などと呼ばれていた。それが子宮癌だなんて、なんと皮肉なことか。

 本人は笑いながら「医者の不養生ならぬ産婆の不養生ね」などと軽口を叩いていたが、きっと相当辛かったに違いない。

 妻はかつて二千人以上もの赤ちゃんを取り上げて来た。しかし結局、自分の赤ちゃんを抱くことは叶わなかった。もっとも、結婚した時、すでに四十と言う高齢だったことも理由の一つだ。

 あまりに仕事が忙しすぎて婚期を逃してしまった。自分の女としての幸せよりも他人の幸せを優先したのだ。いかにも妻らしい。

 生前、妻はそのことをとても気にしていた。僕がそんなことまったく気にしていないと言っても、「あなたに赤ちゃんを抱っこさせてあげられなくてゴメンね」といつも謝っていた。

 妻に先立たれたことは悲しいが、これはある程度は予測していたことで、亡くなった人に順番だと言えば不謹慎だが、実は、彼女は僕より十五才も年上の大昔なら親子と言っても過言ではないほど年の離れた姉さん女房だった。

 そんな妻が亡くなって、ちょうど四十九日目。その日の昼過ぎにまるで示し合わせたように僕の下に一通の封書が届いた。

 パッケージには『タイムカプセル便』との表示があった。差出人を見ると、なんと、妻からだ。半年ほど前の消印が押してある。偶然かもしれないが、まるで自分の四十九日を知っていたようで大変驚いた。

 僕は早速封を開けて中身を取り出した。少し厚みのある花柄の封筒が入っていた。封筒の表には「ヒデ君へ」と書かれてある。

 ――ヒデ君へ、か。

 懐かしい呼び名だ。感慨に浸りながら封筒を開ける。

 手紙の文字は、見覚えのあるブルーの万年筆で書かれている。そして少しクセのある、右に傾いた筆跡。間違いなく妻が生前書いたものだ。これは天国の妻から落ち込んでいる僕に送られたラブレターに違いない。



    大好きなヒデ君へ


まずわたしはあなたに謝らなければなりません。本当にごめんなさい。

宮崎ユキさんのことです。彼女が亡くなって、もう四十年以上が経ちましたが、きっとあなたの心にはまだ若々しい彼女の思い出がたくさん溢れていることでしょうね。

わたしは四十年もあなたを偽って生きて来ました。この罪をあなたに告白しなければ、わたしはこのまま天国に行くこともままならないでしょう。だから心して聞いてください。

十五才の若いあなたは、ユキさんに本気で恋をしていましたね。だから、彼女が亡くなったことを知った時、美芳館のユキさんの部屋で、じっと立っていたあなたの後姿をわたしは、まるで昨日のことのように覚えています。わたしは、絶望の淵にいるあなたを見ることが本当に辛かった。



 そこで僕は、一度手紙から顔を上げ、九階の窓から遠い空を眺めた。

 愛する妻が、四十年も偽って来たこと? これはラブレターなんかではなく、天国からの懺悔なのかもしれない。

 ユキさんか……。なぜ今ごろになって? ああでも懐かしいな。もう妻は、天国でユキさんと再会しただろうか。

 美芳館(びほうかん)か……。 

 ――あれは遠い日。まだこのマンションが建つ前に、この場所にあった古い館の話だ。けれど今でも決して色褪せることはない。目を閉じればいつでもあそこに戻ることができる。そこには永遠に年老いることはない二人がいた。


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