第85話
窓から部屋の中に入ってきた吉樹は、にっこりと笑って美緒に箱を差し出した。
「こんばんは。はい、どうぞ」
「ケーキ?」
「そう。好きだよね」
「うん。ありがと、ジュニア」
礼を言いながらケーキの入った箱を受け取る美緒の顔を吉樹が覗き込む。
「まだ元気がないね」
「ん、まあ色々あったから」
「色々?」
「いや、まあ……」
言葉を濁して机の上に箱を置いた美緒に、吉樹は「ふーん」と片眉を上げた。
「そっか。でも、いつもみたいに跳ね回ってるのが、美緒ちゃんらしいよ」
「私、いつも跳ね回ってなんかいませんよ」
頬を膨らました美緒の頭を吉樹が撫でる。
「ごめんごめん。そうだ、カラス天狗に代々伝わる元気になるおまじないをしてあげる」
「おまじない?」
首を傾げる美緒の顎を、吉樹は左手で掴んで上向かせた。
「そう、おまじない」
吉樹が口角を上げて、美緒に顔を近づける。
「え? ジュニア?」
美緒は目を見開き、一歩下がろうとした。
「じっとして」
しかし吉樹は、美緒の顎をしっかりと掴んでそれを許さなかった。そして――。
「……何してるんでしゅか?」
「何って、だからおまじない」
ぽかんと口を開ける美緒にクスクスと笑いながら、吉樹は手にしたマジックで美緒の額に不思議な模様を描いていく。
「……本当におまじないだったんでしゅか」
「あれ? 初めからそう言ってた筈だけど……いったい何だと思ったのかな?」
「う……」
目を逸らした美緒の額にまじないを書き上げ、吉樹は満足そうに頷いた。
「はい、終わり」
「あー、どうも……って、それ油性マジックじゃないでしゅか!」
吉樹の手にあるマジックを指さして美緒が叫ぶ。
「消えたら効果が無いからね」
「いやいや、明日から私は笑い者になっちゃうじゃない。もう!」
怒りながら、額に描かれた『まじない』を確認しようと、美緒が机の上の鏡に手を伸ばす。
「あう、これ何? 陰陽師系?」
額の模様をごしごしと手で擦り、消えそうにないことが分かった美緒は肩を落とした。
そんな美緒の様子に、吉樹は目を細める。
「可愛いなあ」
美緒の持つ鏡に吉樹の姿が映り込む。
「ん?」
次の瞬間、吉樹が後ろから美緒をギュッと抱きしめた。
「――――!」
頬に触れる感覚。鏡に映る光景。
反射的に美緒は、持っていた鏡で吉樹を叩いた。
「…………っ」
吉樹が頭を押さえて後ろによろめく。
「あ……」
鏡を握りしめた美緒はそれ以上言葉が出ず、視線を泳がせる。吉樹が溜息を吐いて微笑んだ。
「びっくりさせちゃったね。ごめん」
美緒が首を横に振る。
「今日はこれで帰るよ。またね」
手を振って窓から飛んで行く吉樹の後姿を美緒は見つめる。黒い羽根は闇に溶けて、すぐに見えなくなった。
「…………」
美緒の手から鏡が落ちる。
触れられた頬を掌で覆い、それから――美緒は走り出した。
家中に響くほど乱暴にドアを開け、階段を駆け下りる。
「うるせーぞ、姉ちゃん!」
優牙の怒鳴り声が聞こえたが、美緒は振り向かなかった。そのまま玄関を出て、裸足のまま走る。
アスファルトの硬さに傷つく足が徐々に小さくなり、毛が生え、体が縮んでいく。口が尖り、耳と尻尾が生え、狼の姿に変身した美緒は、ずり落ちそうな服もそのままに、ひたすら走った。
通い慣れた道、見慣れた風景。方向音痴の美緒の体に染みついた道順。
そして美緒の足が止まった。荒い呼吸を繰り返しながら見上げるのは――蓮の住むマンションだ。明かりが点いているので、蓮は部屋に居るのだろう。
「…………」
衝動的に、ここまで来てしまった。
吉樹に抱きしめられて頬に唇で触れられた瞬間、美緒の心に浮かんだのは、『違う』という言葉だった。
『この人は違う』。
本能が美緒にそう告げ、足が勝手に動いた。
「蓮君……」
大きく息を吸う。
「おおーん! わぉおおーん!」
美緒は吠えた、言葉にできない気持ちを遠吠えに込めて。ただひたすら、蓮に向かって吠えた。
「あぉお~ん! ぁお、わぉおおおー……うぎゃ!」
その時、突然尻尾に走った衝撃に、美緒は飛び上がる。この感覚は――誰かが尻尾を掴んでいるというのか。
いったい誰が?
そこまで考えて美緒はハッと気づく。そういえば夢中でここまで来て吠えていたけど、人間の服を着た狼が遠吠えをしているなど、怪しすぎる光景だろう。
「…………」
引きつりながら、この状況からどうやって逃げ出そうかと考えていると、後ろから声がかかった。
「美緒、うるさい」
この声は。「え!?」っと振り返ると、そこには――。
「れ、蓮君……?」
眉を寄せた蓮の姿があった。
「なんて恰好しているんだい」
蓮は美緒から手を離して、マンションに向かって歩き出す。
「あ、の……」
「近所迷惑だから上がりなよ」
振り向かずに言う蓮。
「……うん」
美緒は蓮の後を追って走った。