第80話
「今日の家庭科は調理実習だ。みんな怪我のないように」
三好の言葉に六年十組の生徒達は大きな返事をし、調理に取り掛かった。
「カレーでしゅか」
配られたレシピを見て、美緒は顎に手を当てる。教育実習で料理をしなければいけばいとはうっかりしていた。まったく練習などしていないのにと唸る。
さてどうしようかと思っていると、美緒の膝丈くらいしかない小さな女の子――小人が台に立ち、レシピを指差した。
「サラダも作るよ、先生」
「よし、先生はサラダ係!」
「なんで? カレーは作らないの?」
「う。先生はみんなの実力を信じている! 手を切らないように気を付けて頑張ろう!」
周りの生徒達が「おー!」と拳を上げる。
なんとかごまかせたとホッとしていると、男子生徒の一人が、ボウルに米と持参してきた手提げ鞄から取り出した小豆を入れて研ぎ始めた。美緒が首を傾げて訊く。
「え? 何故カレーに赤飯?」
「だって僕は『小豆洗い』だもん」
「そんな理由で? まあいっか」
今日のメニューは赤飯カレーとサラダ。
そう脳内でレシピを書き替えて、手元にあったレタスをちぎっていると、今度は野菜を切る三人の男子生徒が美緒の目に止まる。
「おおぅ、里町三兄弟、包丁は?」
「いらないよ。だって俺達の手、鎌じゃん」
三つ子である里町三兄弟は、見た目は大きなイタチで手が鎌の、所謂『かまいたち』であった。
「それはそうだけど……。料理始める前に、ちゃんと鎌は石鹸で洗った?」
「うん」
「じゃあいいや。このトマトも切って」
三兄弟によって綺麗に切られたトマトを、美緒はレタスと一緒に皿に盛りつけた。
「んーと、次は何を――」
周りを見回し、美緒が悲鳴を上げる。
「うぎゃあ! 何の肉か分からない肉や臓物系をカレー鍋に投入してはいけません!」
自分好みの肉を入れようとする巨大な蛙や、真っ黒な毛に覆われた生徒から、美緒は肉を奪い取った。
「ええー!」
「『えー!』じゃありません。没収です」
不満げな生徒達に背を向け、美緒は臓物を近くにあったビニール袋に入れて、その口を硬く縛る。
「まったく、油断も隙もないでしゅ。しっかり見張ってないと――ん?」
ブツブツと文句を言いながらふと顔を上げ、美緒は眉を寄せた。
視線の先には蓮と、それから……。
「あの女の子は……九尾狐?」
一見人間の姿をしてはいるが、確か恋愛体質であまりよろしくない方法で人間を誘惑してばかりいるという理由から、十組に逆戻りしてきた生徒だ。二人は楽しげに笑いながら仲良くカレーを作っている。
「…………」
美緒の心に不安が広がる。よく考えれば、狐も狼も似ている気がする。それならば……。
美緒は吸い寄せられるように一歩踏み出した。その瞬間――何かにぶつかる。
「あ! 痛っ!」
腕に走った痛み。
「先生!」
里町三兄弟の慌てた声。美緒の腕はざっくりと切れ、血が流れていた。
「ご、ごめんなさい先生!」
そこでやっと、美緒は自分の腕が里町三兄弟の鎌に当たったのだと気付いた。
「だ、大丈夫だよ」
「先生……」
泣きそうな三兄弟に笑う。血がボタボタと床に落ち、集まる生徒達。そんな生徒達を押し退けて三好が美緒の前に立った。
三好は手近にあった布巾を美緒の腕に当て、後ろを振り返る。
「佐倉、大上を保健室へ」
「はい」
「みんな、大上先生は大丈夫だからカレーの続きを作るぞ」
三好の声で、生徒達はざわつきながらも元の位置に戻り、美緒と蓮は調理実習室から出て保健室に向かった。
「ごめんね……蓮君」
怪我をしている美緒の腕を押さえながら歩く蓮は、まっすぐ前を向いて振り向かない。
「何をしているんだい? 先生が怪我をするなんて」
「……ごめん」
「僕ではなく、里町三兄弟に謝りなよ」
「うん……」
里町三兄弟が悪くないことは、美緒が一番分かっていた。生徒の心を不注意で傷つけてしまった事実が美緒に重く圧し掛かる。
そのまま互いに無言の状態で、二人は保健室に辿り着いた。蓮は美緒を椅子に座らせて、薬の入った戸棚を漁る。
「ガムテープは無いか。仕方ない」
戸棚から傷薬とガーゼ、包帯を取り出して、蓮は美緒の前に座った。
「ほら、腕を出して」
「うん」
傷に薬を塗り、ガーゼを当てる。血は既に止まっていた。
蓮が包帯をくるくると美緒の腕に巻く。その蓮の顔をじっと見つめる美緒。蓮が深い溜息を吐いた。
「美緒には向かないかもね」
「え?」
不意に言われた言葉の意味が分からず、美緒は首を傾げた。
「実習に集中してなかったんじゃないかい?」
「それは……」
美緒の視線が彷徨う。
包帯を巻き終わった蓮は、顔を上げて美緒の目を真っ直ぐに見つめた。
「今回はこれですんだけど、次は分からない。真剣にやる気がないならやめたほうがいい」
「だってそれは蓮君が……」
「僕が、なんだい?」
「…………」
九尾狐と仲良くしていたから、なんて言えない。
俯く美緒に、蓮は更に続ける。
「それと、生徒の前ではもう少し言葉遣いに気をつけたほうがいいよ。僕のことも生徒の前では『佐倉先生』って呼んでほしい」
「蓮君……う」
美緒の瞳からポトポトと涙が落ちる。
「美緒、泣かない」
「なんで今日はそんなに冷たいの?」
「普通だよ」
蓮は立ち上がり、ドアへ向かう。
「僕は戻るから、落ち着いたら美緒も戻っておいで。駄目そうならこのまま帰っていいよ」
「蓮君!」
ドアを開け、蓮は去っていく。
置いていかれた美緒は、ただ泣き続けた。
ひたすら泣いて泣いて――どれくらいの時間が経ったのか。目がヒリヒリと痛む。頭では実習に戻らなくてはいけないことは分かるが、体が動かない。
どうすればいいのだろう。
頭を緩く振った時、不意にドアが開いて美緒はビクリと震えた。
蓮が来てくれたのだろうか。期待に満ちた眼差しを向けるとそこには――。
「美緒ちゃん?」
美緒が目を見開く。
「あ……ジュニア」
吉樹は微笑んで、美緒の傍らまで来た。
「怪我したんだって? 送っていくから帰ろう」
「え……? でも……」
美緒が戸惑う。
「父さんも、今日は帰れって言ってたよ」
「ヨシヨシ先生が……?」
「だからね、行こう」
吉樹は美緒の手を引いて立たせ、歩き始めた。
「待って、ジュニア」
「ん? 痛い?」
美緒が首を横に振る。
「そうじゃなくて……」
「無理しないで。大丈夫、誰にでも失敗はあるよ。次に取り返すことにして、今日は帰ろう」
次……。
「うん……」
ぎこちなく頷く美緒に、吉樹は笑う。
「よし、帰ろう」
自分の手を引いて歩く吉樹を美緒は見上げた。
「……ありがとう」
頭にフワリと乗せられた大きな手。
涙がまた流れた。