番外編 「決別」 後編
翌日――。
大学内の喫茶スペースで、優牙が私にファイルを投げつけた。
「俺は便利屋じゃねーぞ」
「分かっているわよ」
私はファイルの中身を確認する。
安藤一夏。二十八歳。
経歴にざっと目を通す。
元水泳選手、現在スイミングスクールのインストラクター。
……成る程、勝てなかったわけね。もっとも酔ってなければ、こんなことにはならなかっただろうけど。
「お前がこんなドジするなんて信じられねーな。姉ちゃん取られて寂しかったのか?」
「……それはあんたでしょ?」
優牙が鼻を鳴らす。
「ちょっと聞き込みもしてみたけど、いい奴みたいだな。特に怪しい動きもないみたいだし大丈夫じゃないか? むしろ懐柔しろ」
「……なにそれ」
「そうすりゃ安心だろ?」
「馬鹿じゃないの?」
私は立ち上がった。
「おい、これだけしてやった俺に報酬はないのか?」
「今度お昼でも奢るわ」
私はヒラヒラと手を振って、立ち去った。
◇◇◇◇
「……何でいるの?」
「えーと、心配だったから」
「ストーカー?」
「そんなことは……!」
大学の帰り、自宅マンションの前で安藤に待ち伏せされた。
「待ってて」
私は溜息まじりに言うと、一度自宅に戻って借りていた服を持って戻ってきた。
「ありがとう。さようなら」
服の入った紙袋を渡す。
「あ、あのさ!」
帰ろうとする私に安藤が声を掛けた。
「何?」
「お茶でも――」
私は髪をかきあげて安藤を睨んだ。
「話なんてないわ。それとも揺すりでもするつもり?」
安藤が私をじっと見つめる。
「……体のことを言ってるのか? 心配しなくても、誰にも言わない」
「…………」
「俺、安藤一夏」
知っている。
私は何も答えずに、マンションに戻った。
そしてそれからも、安藤は度々私の前に現れた。
◇◇◇◇
「ストーカーさん」
夜の九時。マンションの前で、私は安藤に声を掛ける。
「偶然だよ。俺そこのスイミングスクールで先生してるんだ」
知っている。
「ちょっと遅い時間だけど、良かったらお茶でもどうかな?」
懲りない男。
「用事があるの」
「……そうか」
肩を落とす安藤を置いて、私は学校に向かう。
「何処に行くんだ?」
「バイト」
正確には、教育実習。
歩き出す私の後ろを、安藤が付いてくる。
「こんな時間から?」
「そうよ」
「いつ終わる?」
「……ストーカーさん」
私は立ち止まり、後ろを振り向いた。
「違うって」
「何でこんなにしつこいの?」
安藤が、一歩私に近付く。
「一目惚れなんだ」
あの状況でどうして?
「……馬鹿じゃないの?」
真っ直ぐな瞳から目を逸らして再び歩き始めた。
「本当なんだ。だから、付き合ってほしい」
私が早く歩いても、安藤のほうが足が長いからすぐに追いつかれる。
「私が『何』か、分かってる?」
「それは……ちょっとくらい変わっててもいい」
ちょっとじゃないでしょ?
「待って!」
グイっと腕を引っ張られ、私は顔を顰める。目の前を車が通り過ぎた。
「ほら、危ない。送って行くよ」
「結構よ」
でも結局、学校まで安藤は着いてきた。
◇◇◇◇
「彼氏が出来たって本当でしゅか!? 私の目の黒いうちはそんなこと認めない――あう!」
美緒から電話がかかってきた。馬鹿優牙。何で美緒に教えるのよ。しかも誰が彼氏よ。でも……。
明日話す約束をして、電話を切る。
安藤は、何度も私に会いに来る。それがあまり嫌ではなくなっている事実。安藤は本気らしい。
例えば、佐倉のような変態なら納得もいく。でも安藤は少し押しと思い込みが強いだけの普通の人間だ。別に私じゃなくてもいい筈なのに……。
だいたい私の何処に、惹かれる要素があるよ。
そんな事を思っている私は、確実に安藤に惹かれている。
普段は美緒に説教している私が、なんて情けない。
溜息が漏れた。
◇◇◇◇
夕方、大学の講義を終えて帰ってきた私は、リビングでテレビを見ていた。そこに、書斎で仕事をしていたパパがやってくる。
「愛」
「何、パパ」
「彼が下にまた来てるぞ」
「…………」
私はパパから目を逸らした。
「行ってあげなさい」
「なんで!」
パパがそんなこと言わないでよ!
「ママが泣いている」
ママが?
私はパパの言葉に首を傾げた。
「なんでママが泣くの?」
「昔の自分を見ているようで、せつないらしい。パパも昔はママに冷たくしていたからな」
……パパとママに昔何があったのよ。でも今はそれより――。
「知らないわよ!」
私はパパに怒鳴って、自室に戻った。
勉強をやる気も起こらず、ベッドに潜ってもやもやとした気持ちをやり過ごす。
そしてどれだけ経ったのか――ふと気付くと、話し声が聞こえた。
テレビの音? でも、まさか!
私は部屋から飛び出した。そしてリビングで信じられない光景を目にする。
「パパ!? 何でうちに上げたのよ!」
パパが苦笑してキッチンのほうを見る。
「ママが可哀想だって言うから」
「ママ!」
キッチンから「だって……」とママの拗ねたような声が聞こえた。私は溜息を吐いて髪をかきあげる。
安藤はソファーに座って固まっていた。
「ストーカーさん?」
私が声を掛けると、ギギギっと音でもなりそうな感じで安藤が振り向く。
「い、いや、驚いた」
……もしかして、はっきりとは気付いてなかったのかしら。
「もう分かったでしょ? 帰って」
私が人間じゃないって、はっきりしたでしょ?
しかし安藤は首を横に振った。
「帰らない」
その上、パパに向かって深く頭を下げる。
「お父さん! 娘さんをください!」
……付き合ってもいないのに、何を言ってるの。呆れるわ。
パパが笑う。
「愛がいいなら」
パパも……何言ってるのよ。
キッチンから声がする。
「愛、付き合ってあげたら?」
「ママは黙ってて!」
もう、これ以上ややこしくしないでよ。
「愛さん、俺と付き合ってください」
「…………」
ああ、本当に、どうしてこの人は、こんなに私を真っ直ぐに見つめてくるのだろう。
暫しの沈黙の後、私は髪をかきあげて、ゆっくりと口を開いた。
そう、だから――絆されちゃうじゃない。
「……いいわ。たまになら会ってあげる」
安藤が目を見開き、満面の笑みを見せる。
「ありがとう!」
ああ、うるさい。喜びすぎよ。
「……馬鹿みたい」
私が呟くと、「愛、駄目だぞ」とパパが私を諌めた。
◇◇◇◇
「ゴミはゴミ箱へ! 洋服持ってきて、洗濯するから。冷蔵庫の中がどうして空っぽなの!」
ああ、手がかかるわ。美緒が佐倉の元に行ったっていうのに、また手のかかる者を拾ってしまった。本当に年上なのかしら?
「買い物に行くわよ」
靴を履いて外に出て、近所のスーパーに向かって歩く。安藤が慌てて追いかけてきた。
「何を買うんだ?」
「食料と日用品」
どうやって生活してきたのか分からないほど、ゴミ以外の物が無いあの部屋をどうにかしなければ。
早足で歩く。そこに――。
「…………」
ばったり会った犬。いや、これは……。
「優牙?」
私が声をかけると、犬は顔を顰めた。
「……この姿の時に、気軽に話しかけんじゃねーよ」
やっぱり優牙だ。夕方ではあるが、まだ明るい時間に変身しているなんて珍しい。
「何をしてるの?」
「仕事を押し付けられた」
優牙は時々、おばさんの仕事を手伝っているらしいけど……何となく違和感。
首を傾げる私を無視し、優牙は安藤に話しかけた。
「よう、彼氏」
安藤は硬直していた。
「犬が、喋って……」
「犬じゃねえ。狼だ」
「へ、へえ……」
優牙が鼻を鳴らす。
「本気で愛と付き合うなら、これくらいで驚いてたら駄目だぞ、彼氏」
安藤がカクカクと頷いたのを確認し、優牙は私に視線を移した。
「じゃあな。――ああ、そうだ。自分ばっか幸せになってねーで、珍しくへこんでる姉ちゃんの相手もしてやれよ、薄情女」
あら、それじゃあまるで、私が美緒を見捨てているみたいじゃない。
私は眉を寄せて、優牙に顔を近づけた。
「大丈夫よ、あの二人なら。それより優牙こそ協力してあげなさい。あんたにしか出来ないことがあるでしょ?」
「…………」
優牙が目を逸らす。
「あー……、なんだそりゃ?」
とぼけちゃって! 分かってるくせに。
「シスコン」
「はあ? 誰がだよ。じゃあな」
優牙は走り去って行く。逃げたな。素直じゃないから、昔から――優牙も私も。
私は安藤に視線を移す。
「何、固まってんのよ」
安藤が、優牙が消えた方角を指差した。
「さっきのは?」
ああ、さっきのね。
私は笑った。
「元カレ」
驚くほど、するりと言葉が出てきた。そして気付く。
ああ、そうか。もう私は笑うことが出来るんだ。
目を見開く安藤の腕に、私は自分の腕を絡めた。
「さ、行くわよ」
そういえば、洗濯用の洗剤も無かったわね。本当にこの人、今までどうやって暮らしていたのかしら?
私は買う物を頭に浮かべながら、安藤を引っ張って歩いた。