第8話
「わ・・・わん?」
可愛く吠えた美緒の数歩前に、蓮がしゃがむ。
蓮は姿勢を低くして、右手を美緒の方に伸ばした。
「お、おいで、おいで」
そう言いつつも、ジリジリと美緒に近付いていく。
(え・・・と・・・?)
美緒はどうしていいのか分からずに、首を傾げたまま蓮を見ていた。
「おいで、おいで、おいでっ」
(そんなに「おいで」って言われても・・・。捕まえる気なのかなぁ)
美緒は少し警戒して後退った。
「おいでおいでおいでおいでっ」
蓮がさらに近付いてくる。
美緒が後退る。
「おいでおいでおいでおいでおいでっ!」
蓮が近付いてくる。
美緒が後退る。
(え・・・、どうしよう、逃げた方がいい・・・?でも鞄が・・・)
蓮の目を見ながら、美緒はさらに後退った。
そのまま暫くの間、二人共動かずに見つめ合っていた。
(ううっ。もう帰りたい)
美緒が涙目になった時、蓮がハッとして大声をあげた。
「そ、そうだ!」
(はい!?いきなり何!?)
美緒はビクリとして思わず伏せをして蓮を見上げる。
蓮は左手に持っていた鞄を開けて、中から紙袋を取り出した。
(あ!あれは!!)
蓮が持っているものに、美緒の目は釘付けになる。
紙袋から出てきたのはパンだ。
(『街の妖精』のクリームパンだ!!)
学校から少し離れたところにある『街の妖精』は、店主手作りのケーキやパンが美味しいことで評判の店である。
美緒の家とは逆方向にある上に、人気のクリームパンは午前中には売り切れてしまうので、大好きなのに滅多に食べられない代物なのだ。
(た、食べたい!欲しい!)
美緒は思わず涎をたらしながら、蓮を見上げた。
「ほら、パン、美味しいよ。おいで」
蓮がパンを左手に持って、右手で手招きをする。
(え!?くれるの?)
美緒の目が輝く。
「とっても美味しいんだよ。おいで、おいでっ!」
(食べていいの?本当に?)
美緒は立ち上がると、蓮の目の前まで行ってお座りした。
「さあ、どうぞ」
笑顔で美緒の口元にパンを差し出す蓮。
(ありがとー!佐倉君、いい人だー!)
美緒は蓮の手の上にあるパンを一口かじった。
(美味しー!)
「美味しいかい?」
蓮の右手がそっと美緒の頭に触れる。
(うんうん!)
蓮は恍惚とした表情で、美緒の頭から背中に手を移動させる。
「ああ・・・この毛並み。なんて滑らかなんだ」
(ああ・・・このクリーム。なんて滑らかなの)
蓮の手が、美緒の耳をくすぐり、頬を辿って顎に触れる。
「なんて可愛いんだ。ずっと触れていたい」
(なんて美味しいの。ずっと食べていたい)
しかし、気が付けば、パンはもう一口分しか残ってなかった。
(ああ、もう無くなっちゃったよー!)
美緒は残りのパンを口に入れると、蓮の手にこぼれたクリームをペロペロと舐めた。
「―――――!!あ、あ、だ、駄目だ!そんなことしたら、そんなことしたら!!」
(あー、美味しかったー。ごちそうさまー!)
満足気に口のまわりを舌で舐めて、美緒は蓮を見上げた。
「ぼ、僕は、僕はもう・・・!」
蓮の手が震える。
(ん・・・?佐倉君寒いの?)
美緒は首を傾げて、蓮の左手に右前足をのせた。
「もう・・・、我慢できない!!」
(・・・・・え?)
何が起こったのか、美緒には分からなかった。
視界がぐるりとまわり、何故か天井を見ていた。
(あれ?なんで?)
ボケッとしている美緒の口に何か湿ったものが触れた。
(へ?何?)
ペロペロペロペロ。
(え、え、え、何?)
ペロペロペロペロペロペロペロペロ。
(ええ?な、なんか佐倉君の顔が近い?)
ペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロ。
(・・・ってゆーか、舐められてる?・・・舐められてる!?)
美緒は呆然として動けなかった。
蓮が美緒を押し倒して、口を舐めている。
(な、なななー!?)
何度も舐められ、ハッと美緒が気付いた。
(ああ!!ファーストキス!ファーストキスが奪われた!!)
美緒は慌てて顔を背けて藻掻いた。
「ハァ、ハァ、僕のモノだ。離さないよ・・・!」
蓮が美緒の身体をまさぐる。
(嫌ー!初めてのチュウがー!離してー!もう帰るー!って、え!?ええ!?ちょっと、やめ、どこ触って・・・!)
「女の子!女の子なんだね!ああ!大切にするからね!!」
(嫌、そんなとこ触っちゃ・・・!あ・・・やめて!駄目!)
激しく頭を振って抵抗すると、気持ちが通じたのか、それ以上触ることなく、蓮は両手で美緒の顔を撫でまわした。
ホッと息を吐いて、身体の力を抜いた美緒に、蓮は何度もキスをする。
(・・・もういいやキスぐらい。一回も二回も同じだし・・・)
先程身体を撫でまわされた衝撃に比べたら、キスなど大したことはないとあっさり諦めて、美緒はされるがままになった。
そのまま顔中を舐められる。
(もう・・・ベタベタ・・・早くお風呂に入りたい・・・)
虚ろな瞳で天井を見ていた美緒だが、また蓮の手が身体を滑るように動き始めた事に気付いた。
蓮を見ると、恍惚とした表情で、荒い息を吐いている。
美緒の背中に寒気が走る。
(嫌ー!駄目ー!ソレは大人になってからよー!!)
美緒が、暴れて逃げようとする。
「ハァ、可愛い!なんて可愛いんだ!愛してる!愛してるんだ!!」
美緒は必死に後ろ足を動かし、身体を捻って蓮の拘束から抜け出そうと渾身の力で床を蹴る。
「―――――うわ!!」
体当たりを食らった蓮が、バランスを崩して横に倒れた。
(今だ―――――!!)
美緒は、かつてない素早さで立ち上がり、一目散に逃げ出した。
「待ってくれ!行かないでくれ!愛してる!愛してるんだ!!」
蓮の悲痛な叫びが聞こえるが、立ち止まるわけにはいかない。
(ごめんなさい佐倉君!私、まだまだ子供でいたいのー!!!)
美緒は、滑る廊下を必死に走って、家に逃げ帰った。