番外編 「焦り」
蓮視点です。
久し振りの実家は相変わらず居心地が悪かった。
リビングで珈琲を飲む僕と父さん。母さんはキッチンで食事の後片付けをしている。
年の割には若くかっこいい父さんと美しい母さん。表面上は仲の良い、何の問題もない家族。だが――。
「大学合格おめでとう」
遠慮がちに言う父さんに、僕は微笑んだ。
「ありがとう。ごめんね、勝手に進路決めて」
「いや、いいんだ。蓮の好きな道を進みなさい」
理解がある、と言うより遠くの高校に転入させた負い目があるので、父さんは僕が教師になるのを反対しなかった。いや、もしかして既に学園との間で話がついているのかもしれない。
「どうだった? 高校生活は」
「楽しかったよ」
「そうか。彼女はいるのか?」
何気ない質問。
ガシャーン!
キッチンから聞こえた音に振り向くと、母さんの足元で皿が割れていた。
「あ、ご、ごめんなさい」
謝りながら破片を集めようとする母さん。
「大丈夫か?」
父さんが心配そうに声を掛け、僕が立ち上がり母さんの元へ行く。
「母さん、僕がやるよ」
「いいのよ」
首を振る母さんの腕を、僕は強引に引っ張った。
「大丈夫、慣れているから」
「え?」
母さんをソファーに座らせて、キッチンに戻って破片を拾う。母さんはそんな僕をじっと見つめた。
そっと溜息を吐く。
分かっている、居心地が悪いのは自分のせい。
必要以上に優しい母さんを、早く安心させてあげてよう。
「彼女がね、凄くドジで、よく食器を割るんだ」
「彼女!?」
目を見開き、叫ぶような声を上げて、母さんが驚愕した。
「うん、彼女」
「れ、蓮、それって……」
視線が彷徨い口ごもる。『人間か』と訊きたいのだろう。
破片を片付け、僕はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。
「ほら、可愛いだろ?」
そう言って両親に見せたのは、卒業式後に美緒と一緒に撮った写真。
「ほお、可愛いな」
父さんが破顔する。
「うん、ありがとう。『美緒』って言うんだ。今度家に連れてくるよ。ね、母さん」
笑顔で振り向く。すると母さんは涙を流していた。
「おい、どうした」
驚く父さんに、母さんは涙を拭って微笑む。
「ご、ごめんなさい。あまりにも可愛いから感激で……」
「びっくりした?」
「ええ……」
それから少し美緒の話をして、僕は自室に戻った。
大きく息を吐いてベッドに寝転がり、先ほどの母さんのホッとした笑顔を思い浮かべる。
いつの頃からか、母さんは僕の恋愛対象が普通でないことに気付いていた。そして僕を責めずに自分を責めた。
どうにもならないことだが、申し訳ないという気持ちはあった。
だが、これで母さんも長年の悩みから解放されるだろう。
もう一度大きく息を吐いた時――。
「ん?」
携帯電話が震える。
誰からの着信か確認し、僕は電話に出た。
「はい」
「おいこら変態、人型の姉ちゃんにキスしたそうだな。プロポーズといい、何をたくらんでやがる?」
いきなりの喧嘩腰に苦笑が漏れる。
「人聞きの悪い。キスしたのは美緒が好きだからだよ」
「……へえ」
「信じてないのかい?」
「本当は?」
僕は横向きになり、昔から壁に貼られたままの犬のポスターを見つめた。
「参ったな。正直に言うと、焦っていたんだ」
「はあ?」
「僕は狼の美緒を愛している。そして人間の美緒に情がある」
少しの沈黙。
「……それで?」
「変身した姿も人間の姿も同一人物であることは頭では分かっているんだ。だが僕の身体は人間の美緒にときめかない。それは美緒も本能的に感じ取っていたみたいだけど」
「……ああ、そうだな」
僕は笑った。
「これでは美緒が愛想をつかして離れていってしまうのではないか。それは嫌だ。だから思わず『結婚』なんて言葉が出てしまった」
優牙君が唸る。
「それはつまり、衝動的に口走ったと?」
「そうなるな」
「…………」
優牙君は大きな溜息を吐いた。
「何だそれは?」
「これでも人間の美緒を愛そうと努力しているんだよ」
「それがキスか?」
「情はあるんだ。だから何とか身体が反応しないかなぁと」
「馬鹿か! 変態が!」
一方的に電話は切れた。優牙君の怒った顔が目に浮かぶ。
僕は起き上がって携帯電話をベッドの上に放り投げ、そして壁に貼ってあるポスターのところに行き、それに手を触れた。
「狼も人間も、どっちの美緒も好きなんだよ」
青春時代を共に過ごしたポスターをビリビリと乱暴に破り、ゴミ箱に捨てた。