優牙の花 1
背中に感じた気配。
優牙は振り向きもせず、軽く眉を寄せて訊いた。
「何の用だ、理事長」
与えられた研究室、そこで優牙はパソコンを使って書類の整理をしていた。教師になってから、いや、それ以前から学園の仕事を手伝っていた優牙は、ろくな休みも無いまま働き続けている。
「忙しいから、邪魔するなよ」
そんな中、時々やって来る理事長の存在は、はっきり言って迷惑だった。
「血をくれませんか?」
理事長が優牙に訊く。またか、と優牙は舌打ちした。
「嫌だ」
「そう言わずに」
「それと、あんまり勝手なことすんじゃねーよ」
理事長が独自に動いていることは分かっている。何百年も生きているらしいこの吸血鬼は、何百年も生きているとは思えないような無茶苦茶な行動をすることがある。麒麟と龍を一度に転入させたのは、おそらく何か企んでいるからなのだろう。だからこそ、力の源である血が必要なのだ。
「何もしていないよ、まだ」
「これからするんだろう?」
背後からクスクスと笑い声が聞こえる。優牙はまた舌打ちをした。
「血が欲しいなら、他の教師に頼め」
「人間じゃ、ねぇ」
人間の血では足りない、という意味だろう。
「じゃあ、姉ちゃんから貰え」
とんでもない、と理事長は首を振る。
「彼女は駄目だよ。怖い人間に護られているからね」
美緒に手を出した瞬間に自分は灰と化す、と理事長は大真面目に言う。
「変態ぐらい、簡単に倒せるだろう」
「変態を甘く見てはいけないよ。変態には科学では説明のつかない『変態力』が備わっているのだから」
「なんだよ、その変態力ってのは」
そうは言いつつ、理解はできている。佐倉蓮という男は、もしかして人間ではないのではないか、と優牙も時々思うことがある。
「だから、血を――」
「嫌だ」
カチカチ、とキーボードを打つ音が部屋に響く。
「とっておきの情報があるんだけどな」
「ああ、そうかそうか」
「君の知らない特別な狼の、ね」
優牙の手が止まる。
「…………」
ゆっくりと振り向いた優牙に、理事長は赤い唇の端を上げて笑った。
「興味、ある?」
◇◇◇◇
「ここら辺か……?」
ある街の片隅、そこで優牙は立ち止まり周囲を見回した。
理事長から教えてもらった住所はこの辺りだ。夕暮れの街を、優牙は周囲を注意深く見ながら、ゆっくりと歩を進める。そして数メートル歩き、角を曲がったところで道路にしゃがんでいる二人の男の子を見つけた。
小学校の低学年くらいだろう。黒い髪は短く、半袖半ズボンを着ている。同じ顔なのは、双子だからだろう。
優牙は近づき、その男の子たちに話しかける。
「何を見ているんだ?」
「虫」
男の子たちは、振り向きもせずに答える。
「楽しいか?」
「楽しいよ」
「ふーん。でも道路で遊ぶのは危ないぞ」
子供たちはそこで、漸く振り向いて優牙を見上げた。
「兄ちゃん、誰だ?」
「俺か? 悠真学園っていう学校の先生だ」
「先生が何の用だ?」
「君たちのお姉ちゃんに話がある」
子供たちはじっと優牙を見つめ、それから無表情に言った。
「兄ちゃん、人間じゃないな」
優牙が口角を上げる。
「そういう君たちも、人間じゃないだろう?」
子供たちが一瞬顔を見合わせて、笑みを浮かべる。
「兄ちゃん、同族か?」
「ああ。君たちは変身していないのに鼻がいいな」
「そうかな?」
「お姉ちゃんは?」
「仕事だよ。夜にならなきゃ帰って来ない」
「じゃあ、待たせてもらおうか」
子供たちが立ち上がって歩き出し、優牙はその後を付いて行った。
「ここが俺達の家だ」
優牙は目の前のアパートを見上げた。
「おんぼろアパートだな」
「おんぼろアパートだよ」
一階の角の部屋のドアを開け、子供たちは入っていく。優牙も玄関に入っていくと、部屋の中に居た者達の視線が一斉に向けられた。上は中学生から下は小学生までの男女七人の子供達、いや、
「七匹か……」
優牙が顎に手を当てて呟く。理事長から貰った資料通りだ。
「まさか、こんなにいるとはな」
自分の目で確かめるまでは信じられなかった。
靴を脱いで部屋に上がってくる優牙に、七匹の中では一番年長と思われる男の子が眉を寄せる。
「おい、誰だ?」
「悠真学園の先生だよ」
優牙は答えながら畳の上に座り、室内を見回した。畳の部屋が二間と流し台、トイレ有り風呂なし。この狭いにアパートの一室に家族全員で住んでいるようだ。
「何しに来た?」
男の子に訊かれ、んー、と優牙はわざとらしく首を傾げる。
「まあ、簡単に言えばスカウトかな?」
「お前、嫌なにおいがする」
「ああ、それはうちの理事長のにおいだよ」
優牙は子供たちに笑顔を見せた。