第112話
「さようなら、先生」
「気をつけて帰るのよ」
授業が終わって帰る生徒達に、美緒は手を振る。
今日も一日、無事に終わった。ほっと息を吐くと、背後から声が聞こえる。
「先生ー!」
美緒は振り向き、駆け寄ってくる麒麟と龍に微笑んだ。
「そんなに走って大丈夫?」
龍と麒麟は、理事長が経営する病院で適切な治療を受けて元気になった。しかしまだ暫くは体調に気をつけなくてはならないと医者から言われていた筈だ。
「大丈夫だって」
「じゃあ、早く帰らないと。また危ない目に遭うよ」
「闇夜に紛れて空飛んで帰るから大丈夫」
龍の背中に麒麟が乗り、空へと浮かぶ。
「うわ、それいいな! 先生も今度乗せてほしい」
「いいよ」
「やった!」
「さようなら、先生!」
龍と麒麟が去っていく。ふたりはあの事件以来、それまでのいがみ合いが嘘のように仲良くなった。捕まっている間、お互いを励まし合っているうちに友情が芽生えたようだ。
夜の闇に麒麟と龍が消え、美緒は振っていた手を下ろす。これで生徒はすべて帰ったのだろうか。確認しなくてはと踵を返すと、向こうから歩いてくる蓮と目が合った。
「お疲れ」
「お疲れさま」
「帰ろうか」
蓮が、手に持っていた美緒の荷物を目の高さまで上げる。
「でもまだ……」
「後は、毒島先生と梶先生がやってくれるって」
行こう、と蓮が美緒の横を通って歩いて行く。
「あ、待って」
慌てて後を追いかけてくる美緒に、蓮が振り向いて手を差し出す。手を繋いで、ふたりは美緒の自宅へと向かった。
「お母さんのご機嫌は直ったかい?」
「うん」
「それは良かった」
そうして美緒の自宅の前まで歩いて行くと、
「あ、優牙。愛ちゃんも……」
優牙と愛が門の前に立っていた。
優牙が蓮を上から下まで見て、口角を上げる。
「よお変態。あの刀は持ってこなかったのか?」
蓮が片眉を上げる。
「見ての通りだよ」
「命知らずだな」
「誠意を持って話せば、きっと分かってくれるはずだからね。でももしもの時は、身を挺して守ってください、可愛い弟君」
「嫌だね」
ぷいっと横を向いた優牙を、蓮が声を出して笑う。
美緒は愛に駆け寄り、その両手を握った。
「愛ちゃん、心配して来てくれたんでしゅね。持つべきものは親友だよね!」
感動する美緒を、愛が鼻で笑う。
「心配じゃなくて、見物。危なくなったら私一人だけでも逃げるから」
「おおう、冷たい……。ああ、でもそんな愛ちゃんも好き」
「早く行きなさいドМ」
愛が玄関ドアに向かって顎をしゃくる。美緒は頷いて愛の手を離し、再び蓮の手を握った。
美緒の両親は、もう次の仕事にとりかかると言っている。そうなればまた暫くは帰って来なくなり、いつ会えるのかもわからない。だから今夜、美緒と蓮は、美緒の両親と話しをすることにしたのだ。
蓮が玄関ドアを開け、四人は家の中へと入った。そしてそのまま、真夜中だというのに灯りのついているリビングへと行く。
「ただいま、お父さん、お母さん。えっと……」
リビングのドアを開けて、ソファーに座る両親に挨拶をし、美緒は口ごもった。
「お帰り」
冴江が振り向いて言うと、
「ただいま、母さん」
蓮が微笑む。
「何故お前が返事をする!」
憤る拓真の前まで、蓮と美緒は手を繋いだまま行き、ソファーに腰かけた。
蓮が拓真に笑いかける。
「今日は、お話があってきました」
「お前と話すことなどない」
「そんなこと言わないでください、父さん。こないだ助けてあげたじゃないですか」
「お前に助けてもらったわけじゃない! だいたい人間なんて認めない」
「そうです。僕は人間です」
蓮は笑顔を消し、拓真の目を真っ直ぐに見つめた。
「でも、誰よりも美緒を愛している」
繋がった手に、力が籠められる。美緒が蓮の横顔を見つめた。
「蓮君……」
「一日三回エサをきちんとやるし、おやつだってあげる。散歩にも予防接種にも連れて行く。艶々の毛並をキープする為に、ブラッシングも欠かしません」
蓮の顔を見つめたまま、美緒が「へ?」と間抜けな声を上げる。
「……えっと、蓮君、何を言ってるんでしゅか?」
拓真が鼻を鳴らした。
「ふん。美緒はお前の手に負えるような狼じゃない」
その言葉に、蓮は深く頷く。
「確かに、料理も洗濯も掃除も何度教えても笑えるほど下手です。その上、僕のパソコンから怪しいサイトを閲覧したりもします。それでも少しずつ躾は出来ています。以前は可愛いこと以外にいいところが無かった美緒も、愛する僕の為に努力してくれています」
美緒が蓮の腕を引っ張った。
「もしかして、結構ひどいこと言われてない、私?」
身体を前のめりにして蓮を睨み付け、拓真は低く唸るような声を出す。
「我々には、人狼の純血を守るという使命がある」
ああ、と蓮は微かに笑った。
「それは優牙君に期待してください。ね、優牙君」
振り向いて優牙に片目を瞑る蓮。愛と共に壁際に立って様子を見ていた優牙が舌打ちをして、ゆっくりと拓真に向かって歩を進める。
「……俺だって、いつまでも姉ちゃんの面倒を見られるわけじゃない。姉ちゃんには自由が似合う。かと言って、完全に放し飼いにするのはあまりにも危険だ。――だったらいっそ、こいつに押し付けてもいいんじゃないのか? 変態だが、姉ちゃんを愛してくれている。変態だが」
そこは強調しなくていいんじゃないかい、と「変態」と連呼する優牙に蓮は苦笑した。
「娘を変態にやる親が何処にいる!」
拓真がますます憤り、テーブルを拳でドンと叩く。
「美緒、そんな人間とは別れなさい」
「お父さん……」
「さあ、美緒」
差し出された父親の手。いつも家にいない父親は、たまに帰って来ると、美緒をこの手でぎゅっと抱きしめてくれた。大好きな、大きな手。しかし美緒は首を振ってそれを拒否した。
「嫌」
「美緒!」
「だって――私、蓮君が好きなの!」
美緒は拳を握りしめ、父親に訴える。
「確かに蓮君は変態で、要求がハードだけど、凄まじくハードだけど、それでも私は蓮君が好きなの!」
美緒の必死の訴えに、拓真は目を見開いて愕然とした。
「美緒、お前まさか……そこまで調教されてしまっていたのか……。人狼の誇りは捨てたのか?」
美緒が唇を噛みしめて俯く。
「……私、もう普通じゃ満足できない狼になってしまったの。ごめんなさい、お父さん」
「…………」
拓真は背もたれに身を預け、両手で顔を覆った。心の奥底まで変態に侵されてしまった娘。少々馬鹿でも真っ直ぐに生きていると信じていた娘は、何処に行ってしまったのか……。
暫くそのまま、静かに時は流れ、そして、
「……飼いならされた狼は、狼じゃない」
拓真が呟く。
弾かれたように、美緒が顔を上げた。
「お父さん……」
「好きにしろ」
拓真の表情に、もう悲しみはなかった。少しの諦めと娘の幸せを願う気持ちを拓真から感じ、美緒は泣きながら笑った。
「ありがとう、お父さん」
「ありがとうございます」
深く頭を下げる若い二人から視線を逸らし、拓真が立ち上がる。そして黙って成り行きを見ていた冴江も、立ち上がって笑った。
「さあ、話が纏まったところで私達は行かなきゃね」
「え?」
美緒と蓮が冴江を見上げた。
「仕事ですか?」
「今から行くの?」
冴江が手を振る。
「じゃあね」
そのまま出て行こうとする冴江と拓真。それを見て、蓮が自身の鞄から何かを取り出した。
「お父さん、どうぞ」
蓮の手には、表に大きく『誠意』と書かれた封筒が握られていた。
「ふん……。幸せにならなければ許さない」
「分かっています」
封筒を引ったくり、拓真が出て行く。その後を、もう一度手を振って冴江が続いた。
パタン、というドアの音がして、拓真と冴江はいなくなった。
「……行っちゃった」
閉じられたドアを見つめて美緒は呟き、それから蓮に視線を移す。
「ねえ、蓮君」
「なんだい?」
「何を渡したんでしゅか?」
蓮が美緒を見下ろして首を傾げる。
「誠意だよ」
「誠意とは?」
口角を上げ、蓮は美緒の長い髪に指先で触れた。
「敵のアジトには監視カメラがいっぱいあっただろう? そこに面白いものがたくさん映っていたから差し上げたんだ」
「面白いもの?」
美緒が「ん?」と眉を寄せる。
「誰かがテレビ局に売ったり、ネットで晒したりしなくて良かった。そう思うだろう、美緒」
「……それって」
頬を引きつらせる美緒に、蓮は綺麗な笑顔を見せた。
壁際にいた愛が、大きく息を吐いて肩を竦め、美緒のもとに歩いてくる。
「なんだ。いざというときの為にいろいろと持ってきたのに、無駄になっちゃったわ。残念」
美緒は首を傾げて愛に訊いた。
「何を用意してたんでしゅか」
愛がクスクスと笑い、意味ありげな視線を向けてくる。
「聞きたい? 本当に聞きたい?」
「……いえ、いいです」
何かとんでもないものを用意していたのかもしれない。美緒は首を横に振った。
「さーて、帰ろうかな」
髪をかき上げて言う愛の肩を、優牙が軽く叩く。
「送ってやるよ」
「あらそう? じゃあお願い」
そのままリビングから出て行こうとする愛と優牙を、美緒が慌てて呼び止める。
「ちょっと待って、お祝いは? 今宵は歌って踊って隠し芸大会じゃないの?」
「うるせえ。姉ちゃんは変態の家へ帰れ」
「じゃあね、美緒」
「ええ!?」
優牙と愛が出て行き、残された美緒は蓮の顔を見上げた。
「行っちゃった」
「じゃあ、僕達も帰ろうか」
「……うん」
手品練習したのにな、と唇を尖らせる美緒に、蓮が手を差し出す。手を繋いで外に出ると、もう優牙と愛の姿はなかった。
美緒は暗い空を見上げ、ふと気づく。
「あ、満月」
「ああ、そうだね」
月を見上げながら、二人は歩き始めた。