第111話
書類を一枚手に取って、美緒はそれをじっと見つめた。
人外売買組織は、生徒達の活躍もあって壊滅した。暫くは人外を狙う者達も大人しくしていてくれるだろう。
これで通常の仕事に戻れ、私生活での問題も漸く解決させるべき時がきた。――と言っても、そのどちらもがかなり手強く大変なのだが。
小さく唸り額に人差し指を当てる。と、その時、元気のいいノックの音が聞こえ、美緒は視線をドアへと向けた。
「失礼しまーす。先生、話って何ですか?」
研究室に入ってきたハルに、美緒は笑顔を見せた。
「座って、ハルちゃん」
ハルが勧められた椅子に座る。
美緒は書類を手にしたまま、ハルの方へと向き直った。
「就職のことなんだけど」
言われた瞬間、ハルが頭を掻いて小さく唸るような声を出す。
「あー……、はい。あの、見つかりそうですか?」
「うん、ここどうかな?」
美緒は持っていた書類をハルに渡した。
「これ……」
ハルが目を見開く。書類に書いてあったのは、大手食品会社の名前だった。
「ここの商品開発部からスカウトがあったんだけど、どう?」
ハルは首を傾げた。
「スカウト……私に?」
そう、と美緒は頷く。
「新商品の開発を担当してほしいって。舌は確かだし、沢山食べるのも得意でしょ?」
「…………」
ハルはじっと書類に書かれている企業名を見つめた。
「勿論ハルちゃんが二口女だって秘密は守ってくれるし、それに既にこの会社には学園を卒業した人外が数人就職しているから、何かあっても相談に乗ってもらえるの」
実は、その卒業生から商品開発部の人出が足りないという情報が来て、そこから二口女のハルのことが商品開発部に伝わったのだ、と美緒は言う。
「どう? 大食いを活かすチャンスだと思うけど」
ハルが書類をぎゅっと握る。
「私……、就職出来ないかと思っていました」
顔を上げ、ハルは美緒に決意を告げた。
「一生懸命頑張ります。よろしくお願いします」
美緒が微笑む。
「そう、良かった。実はね、働きながら大学にも通えるように配慮してくれるらしいの」
「え?」
昼間は仕事、夜は大学に通えばいいと言う美緒にハルは戸惑う。
「でも、そんなこと……」
「向こうがそれでも是非って言ってるんだから、いいんじゃない?」
ハルは暫し美緒の目を見つめ、そして唇を微かに震わせた。
「嬉しい」
「うん」
「私、仕事も勉強も頑張ります」
「適当に頑張ればいいよ」
ハルが泣きそうな顔で笑う。
「はい」
ありがとうございます、と深く頭を下げて、ハルは研究室から出て行った。
深く息を吐いて、美緒が背もたれに身体を預ける。と、その時、
「先生ー!」
声と同時にドアが開いた。美緒が身体を起こし、眉を寄せる。
「馬田君、ノックをして室内から返事があってからドアを開けなきゃ駄目でしょ」
「ラブレター書いたんだ、見てくれる?」
まったく美緒の注意を聞いていない様子で、馬田は手紙を差し出した。
美緒が溜息を吐く。
「諦めてなかったんだ……。でも、うん、どれどれ?」
馬田の手から手紙を受け取り、美緒がそれを読む。
『僕は身体の半分が人間で半分は馬だけど、上半身も下半身も君を愛している』。
「…………」
「どう? 上手く書けてるかな?」
なにこれ、という言葉を美緒は飲み込んだ。
「なんて言うか、もっと清い、青少年らしい文章の方がいいんじゃないかな? それから、もう少し手紙の書き方を勉強してください。一行だけって……」
「男は直球勝負だと、梶先生が言ってたよ」
馬田が不満げに頬を膨らませる。美緒は唇を尖らせて渋い表情をした。
「梶先生ったら……。――梶先生は、脳みそが筋肉でできているので恋愛のアドバイスを貰うのには向かないのです」
「彼女をデートに誘いたいんだけど」
「うーん、それはまだ早い。もっと後からの方がいいかな?」
今すぐにでも突っ走って行きそうな馬田を、美緒は真剣な表情で見つめた。
「軽はずみな行動は避けるべきだって、分かるよね?」
馬田が美緒の目をじっと見つめ、それから視線を下に向ける。
「……はい」
美緒は微笑んで、馬田の肩に手を置いた。
「焦るな青少年。人生はまだまだ長いんだから、一緒に考えていこう」
馬田が顔を上げて頷く。
「うん。分かった、先生」
馬田は美緒から返してもらった手紙を丁寧に畳んで制服のポケットに入れ、研究室から出て行った。
「……大丈夫かな?」
閉まったドアを見つめ、美緒が呟く。梶には後で苦情を言わなければならないな、と考えながら美緒が机に向かった時、
トントン。
聞き慣れたノックの音が聞こえた。
「はい?」
美緒の返事を待ち、ドアが開く。研究室に入ってきた蓮は、片眉を上げて笑った。
「軽はずみな行動をするな、か」
美緒が顔を顰める。
「どこで見てたんでしゅか? 覗きなんて悪趣味な!」
「違うよ。この部屋の前に来たときに、たまたま馬田君と美緒が話しているのが聞こえたんだ」
「嘘っぽい」
蓮が声を出して笑う。
「ねえ、美緒」
「なんですか? そろそろ次の授業に行かないと」
机の上の書類を整理しながら立ち上がる美緒の腕を、蓮が掴む。
「『その恋は叶わない』って、言ってあげないのかい?」
振り向いた美緒の目の前には、それまでの笑顔が嘘のように消えた蓮の顔があった。
一瞬唇を引き結び、美緒は蓮の目を真っ直ぐに見つめる。
「それは分からないじゃない」
「彼を傷つけるかもしれないよ」
「そうだね」
「……ふーん」
蓮が美緒の腕から手を離す。美緒は書類を纏めて引き出しに片付け、授業に必要な道具を小脇に抱えた。
「行きますよ、蓮君」
「……ああ、行こうか」
歩き出した美緒の後を、蓮がゆっくりとした足取りで付いて行った。