第109話
<小さなリュック一つ、それだけを持って、私は山道を歩いていました。
悠真学園の教師は気力だけでは務まらない。
そんなことは分かっていました。スカウトされて脅されて歩んだ教師の道でも、なったからには全力で生徒達をサポートしていく。その為にそれなりに身体も鍛えていたつもりでした。それなのに――、肉体的、精神的限界が来ていたことを、倒れて初めて実感しました。
なんて情けない。学園では仲間の教師たちが不眠不休で頑張っているというのに。
肉体と精神力、それを回復するのにはどうすれば……。二日考えて、私は思い付きました。
そうだ、温泉に行こう!
私は本棚から『週刊・秘境を旅する』を取り出しました。
どこかいい温泉はないか……。一心不乱にページを捲り、そして見つけました。
「これだ……!」
山奥にある幻の温泉、そこならば疲れ切った体も回復するに違いない。
付録のマップを頼りに山の中を彷徨い、そして半日後、思ったよりも早い段階でそれは私の目の前に現れました。
秘境って、意外と近場にあるのだな。そんなことを考えつつ服を脱ぎ、勢いよく湯に飛び込み……しかしそこで、予想外のことが起こったのです。
「あぁぁああ!」
叫び声が山に木霊する。
そう、湯が――湯の温度が思っていたより熱かったのです。
熱い! 湯の温度も載せておいてほしかったぞ、週刊・秘境を旅する。私は叫びながら熱い湯からなんとか逃げようともがきました。そしてその瞬間、またしても予想外の出来事が起こったのです。
幻……?
いや、現実なのか。一瞬にして凍りついた温泉の湯、身体にみなぎる力、冷気、それから……溢れる両親の記憶。
雪のように白く美しい母、優しい父。猛吹雪の中、私の手を引く大きな手――。その手が凍りつき、振り向いた先に居た母の涙……。
私はすべてを思い出しました。雪女であることを隠していた母、母の身体の冷たさがただの冷え症ではないと気づいてしまった父。
私を連れて逃げようとした父を、母は急速冷凍した。愛する人を失いたくなかった、ただその思いだけで――。
子どもの私はその場で気を失い、次に目を覚ました時には父と母の記憶を失っていました。どうやら強い暗示により力と記憶を封印されてしまっていたようです。
そう、赤い瞳の持ち主による強力な暗示で――。
熱湯風呂のおかげですべてを思い出した私は、幼いころの記憶を頼りに母と父の行方を捜しました。学園も大切だが、親の記憶を取り戻した私は、どうしても両親に会いたかった。
そして数年後、雪山の小屋の中で、母と氷漬けにされた父をやっと見つけたのです。
私は母を説き伏せ、父を解凍しました。そして父に言ったのです、
「冷たくたっていいじゃないか、雪女だもの」
と。初めは事実を受け入れられなかった父を何とか説得した結果、二人は再び共に歩むことに決まり、そして私はまた教師として働き始めました。めでたしめでたし。>
美緒がパチパチと手を叩き、指先で涙を拭う仕草をする。
「うぅ……。つっこみどころ満載だけど、予想外にいい話だった。それでずっと休職してたんだね」
「ええ。長く休んでしまって申し訳ありませんでした」
これからは今までの分まで頑張って働きます、と言う木村に美緒は何度も頷く。
「うんうん。ところでご両親はその後どうなったの?」
「両親はもうすぐ、学園の近くにかき氷専門店をオープンする予定です。雪女が心を込めて生み出すフワフワでシャリシャリの新触感氷と、父が研究を重ねて作り上げたシロップとの絶妙なバランスが自慢です。サービス券を差し上げますので、是非食べに行ってみてください」
「うん、行く――うぷっ」
美緒の顔が蓮の背中に当たる。
「どうしたの、蓮君?」
何故急に立ち止まるのか、と美緒が首を傾げる。
「美緒」
「はい?」
蓮は振り向き、前方を指さした。
「あれ」
「あれ?」
蓮の指さす先を、美緒は目を眇めて見つめる。
「鉄格子……?」
おそらく捕まえた人外を入れておく為であろう牢が並んでいる。牢の中は床も壁も黒く汚れている。
こんなところに捕獲した人外を……。
この中でいったいどんな仕打ちを受けていたのだろうか、と唇を噛みしめて牢を見つめる美緒。と、そこで牢の一つに何か転がっているのに気付いた。
ぼろ布――いや……。
美緒が蓮を抜かして牢に近づく。布ではない。ふさふさとしたそれは――。
美緒は立ち止まり、声を上げた。
「あ、お父さん」