第94話
「大上先生、来週末空いていますか?」
学校の廊下で蓮からそう声を掛けられた美緒は、勢いよく振り返ってきっぱりと言った。
「首輪プレイなら、もうしません!」
声が、少々大きい。蓮は素早く美緒の襟国を掴んで、階段の下に引っ張って行った。
「しないよ、学校では。そうじゃなくて――」
「じゃあ、今度は何プレイでしゅか?」
「――僕の実家に行かないかい?」
「ああ、実家プレ……へ?」
ポカンと口を開けた美緒に、蓮が片眉を上げる。
「両親に美緒を紹介したいんだけど、行かないのかい?」
「…………」
実家、両親……。その言葉の意味を美緒はやっと理解し、カクカクとぎこちなく頷いた。
「い、行く!」
「うん、じゃあ週末は予定を空けておいて」
美緒の頭を掌で軽く撫で、蓮は「じゃあ、また後で」と去っていく。
美緒はその背中を見えなくなるまでじっと見つめ、それから人目を憚らず奇声を上げた。後ろに立っている人物には気づかずに――。
◇◇◇◇
仕事が終わり、身支度を整えて美緒の研究室を訪れた蓮は、その頭に巻かれたガムテープを見て眉を寄せた。
「どうしたんだい、その怪我」
美緒が「う……」と声を詰まらせ、目元の涙を指先で拭う。
「聞いてください。私の幸せを妬んだ乱暴な男が、突然頭をガツンと……」
涙の訴えに、蓮が首を傾げた。
「乱暴な男? 優牙君かい?」
と、その時、ドアが勢いよく開いて、優牙が部屋に入ってきた。そして大きく舌打ちして、美緒と蓮を睨む。
「誰が『乱暴な男』だって? 気持ち悪い声を上げていたから声を掛けたら、驚いて勝手にこけただけだろ? 職場では常識人を演じろって、何度言ったら分かるんだよ」
「うるさいでしゅよ、乱暴男! 自分だけ常識人みたいな言い方はやめなさい!」
優牙はもう一度舌打ちをして、手に持っていた物を蓮に投げ渡す。蓮が受け取った物を見ると、それは真新しいガムテープだった。
「何があったかは知らないが、外で姉ちゃんがおかしくなるようなことを言うな。これ以上、俺の仕事を増やすな」
美緒たちより一年遅れで学園の教師になった優牙も、忙しい日々を送っていた。『即戦力』として教師となった者たちに、学園は容赦がない。特に、蓮と優牙は『体力が有り余っている』という勝手な判断の元、過酷な労働を強いられていた。
そんな優牙の言葉に、美緒が「んん?」と口角を上げて笑う。
「何があったかは知らない? んー、じゃあ教えてあげるよ」
「……話、ちゃんと聞いていたか? 大事なのはそこじゃない。『これ以上仕事を増やすな』という部分だ」
「実はですね、蓮君の実家に行くのです!」
「へえ、そうか。それで?」
「あう! あっさり!」
もっと驚くと思っていた美緒は、落胆して大袈裟によろめいた。
優牙は鼻を鳴らし、馬鹿にした目を美緒に向ける。
「馬鹿みたいにはしゃいでいたから、だいたいの想像はついていた。それで――どうするんだ?」
言いながら、優牙が蓮に視線を移す。蓮は苦笑して、肩を竦めた。
「とりあえず、簡単な方から処理しようと思ってね」
「難しい方はどうするんだよ?」
眉を寄せる優牙に、蓮が微笑んで訊く。
「優牙君、結婚のご予定は?」
「ねえよ!」
優牙が即答し、蓮は顎に手を当ててわざとらしく唸った。
「うーん、それは残念。最近よく出掛けているので、てっきりそういう相手がいるのかと思ったんだけどね」
「どさくさ紛れで何とかしようとするな。……まだいねえよ」
不機嫌な表情の優牙に、「ああ、まだなんだ……」と小さく呟き、蓮は肩を竦めて息を吐く。
「分かっているよ。――倒さなきゃいけないのだろうね」
美緒を手に入れるための壁は厚く高い。覚悟を決めなければならないだろう。
優牙が頷く。
「そうだな」
「ご両親が帰って来る予定は?」
「知らないな」
「ふーん、そうかい。じゃあ、探っておいてくれるかな?」
「なんで俺が! 自分たちのことは自分たちで――」
声を荒げる優牙の肩を、蓮が爽やかな笑顔で叩いた。
「頼んだよ、弟よ」
「誰が弟だ!」
肩に置かれた手を、優牙が乱暴に払う。
「ふぎゃあー!」
払った手は横に居た美緒の顔面を直撃し、美緒は絶叫と共に壁際まで吹き飛んだ。