第89話
夜間教育実習の休み時間、美緒は廊下で、研究室に戻ろうとしていた三好の腕を掴んで引き留めた。
「ヨシヨシ先生、ジュニアと会いたいです」
三好が片眉を上げる。
「ん? 吉樹にか?」
「はい」
「ああ、いいぞ、呼んでやる。だがあそこでこちらを睨んでいる奴の許可はちゃんと取ったのか?」
壁際に立っている蓮をチラリと見る三好に、美緒は頷いた。
「ちゃんと許可は取ってあるので大丈夫です。……たぶん」
「そうか、分かった。実習終了後、音楽室でいいか?」
「はい。ありがとうございます」
三好が美緒の頭を撫でて、去っていく。美緒は小さく息を吐いて振り向いた。
「ということで、実習終了後、ちゃんと決着をつけます」
蓮が口角を上げる。
「そう。分かったよ」
「うん」
なんとなくズルズルとここまで引きずってしまっていたが、このままにしていいわけがない。美緒は今日、自分の気持ちと決意を吉樹に伝えるつもりだった。
油断すればそわそわと落ち着かなくなる心を気合で抑え、なんとか実習を無事終えた美緒は一人で音楽室へと向かう。そして大きく深呼吸をしてドアを開けると、そこには既に吉樹の姿があった。
「ごめんなさい。ジュニアとはお付き合いできません」
一歩、音楽室に入った美緒が、頭を下げて言う。吉樹が軽く目を見開いた。
「いきなりだね。なんでか訊いていい?」
美緒は頷いて、ドアを閉めてから吉樹の目の前まで行く。
「私、やっぱり蓮君が好きなんです」
「翼狼は?」
美緒が一瞬、視線を彷徨わせた。
「それは……かっこいいかもしれないけど――」
「俺の方が、美緒ちゃんを幸せに出来るよ」
「――それでも、蓮君がいい」
「あいつのどこがいいの?」
少しだけ馬鹿にしたような口調で顔を顰める吉樹の目を、美緒は真っ直ぐ見つめる。
「蓮君は頭が良くて、運動神経が良くて、容姿も申し分なくて、……変な癖はあるけど、でもそれもひっくるめて好きというか……一緒に頑張っていきたいんです」
「変な癖があったら気持ち悪くない?」
「気持ち悪さも、蓮君の個性なんです」
拳を握りしめる美緒に、吉樹はますます顔を顰めた。
「……分からないな。俺の方がいいに決まってる」
吉樹が美緒に手を伸ばす。
「うう、意外にしつこい?」
本能的に吉樹の手から逃れようと、美緒が後ろに下がった、その時――。
バターン!!
突然、ドアが勢いよく開いた。美緒が飛び上がって振り向き、吉樹が目を見開く。そこに立っていたのは……。
「と、鳥ー!? ――と蓮君?」
スカートを穿いた、見知らぬカラス天狗だった。
「え? 誰?」
ポカンと口を開ける美緒の横を通り過ぎ、カラス天狗は奇声をあげて吉樹に体当たりする。
「吉樹ー!」
突然の攻撃に、吉樹はバランスを崩して尻もちをついた。
「ま、舞子!? なんでここに居るんだよ!」
必死に引きはがそうとする吉樹に、カラス天狗――舞子は絶対離れないとばかりに抱きつく。
「あんた、私という者がいながら何してるの!?」
「なんだよ、お前には関係ない! 美緒ちゃん、こいつはただの幼馴染だから気にしないで!」
舞子の腕を押し戻しながら、吉樹が美緒に向かって叫んだ。その吉樹の言葉に、舞子がいきり立つ。
「何言ってるの、結婚の約束をした仲じゃない!」
「子供の頃の話だろう! 俺はこの子みたいな可愛い子が好みなんだよ! 山に帰れ!」
「だってその子、彼氏がいるんでしょ? それに私の方がいい女よ!」
「ふざけるな! だいたいお前はなあ……!」
激しく言い合いをしだした吉樹と舞子に、完全に存在を忘れられた美緒が呆然と呟いた。
「何でしゅか、この痴話喧嘩は……」
蓮が美緒の手を引っ張る。
「美緒、帰るよ」
「え? あ、蓮君、ちょっと待って、まだジュニアと話が済んでないでしゅよ」
「大丈夫だよ」
戸惑う美緒に笑って、蓮は吉樹に向かって言った。
「僕達は帰ります。彼女とお幸せに」
ありがとう、と吉樹からではなく、舞子から返事が返ってくる。蓮は美緒を連れて音楽室から出た。
「ねえ、もしかして蓮君があの鳥呼んだの?」
廊下を歩きながら、美緒が蓮を見上げる。
「ああ、そうだよ。胡散臭い奴だなと思って調べてみたら、彼女――舞子さんの存在が分かったんだ。二人は許婚らしいよ」
「許嫁!? へえ、そうなんだ。でもどうやって調べたの?」
「三好先生の奥さんにサムゲタン持って行ったら、あっさり教えてくれたんだ」
「おおぅ、賄賂万歳」
蓮がクスクスと笑う。
「『嫌だ』といいつつ仲いいし、お似合いだろう?」
「うーん、まあそう……かな?」
「そうだよ。後はあの二人の問題であって、僕達が口を挟む必要はない」
「うん……」
後ろを気にして振り向く美緒の肩を抱き、蓮が少しだけ足を速める。
「美緒、早く帰るよ」
「蓮君! そんなに押したら足がもつれるでしゅ!」
言い争う声は遠ざかっていった。