第88話
「よう、朝帰り」
朝、静かに玄関のドアを開け、そのままこっそりと部屋に戻ろうとしていた美緒は、自室の前で優牙に捕まった。
「あう、優牙。ただいま」
「あんまり勝手なことすんなよ。というか俺に迷惑をかけるな」
「申し訳ございません」
素直に謝った美緒に鼻を鳴らし、優牙は「メシにするぞ」と言って一階におりていく。美緒も一度部屋に戻って着替え、リビングへと行った。
「おはよう、美緒」
「美緒、おはよう」
リビングでは、父である拓真と母の冴江が、食事中だった。美緒は二人の前に座り、優牙から茶碗と箸を受け取る。
「友達のところに泊まったんだって?」
冴江の言葉に、美緒が一瞬「うっ」と詰まり、頷く。拓真が首を傾げた。
「愛ちゃん以外の友達なんて、美緒にいたのか?」
どうやら、美緒は愛以外の友達の家に遊びに行っていたことになっていたらしい。
「わ、私もいろいろと交友関係を広げて将来の礎を築いていこうと思っている次第でありまして……」
「将来? 結婚に向けてか?」
結婚、という言葉を当然のように使ってくる拓真。
「…………」
美緒は茶碗と箸を置いて、そんな拓真の目を見つめた。
「私、大学を卒業したら、働くつもりなんだ」
拓真が大きく頷く。
「そうか。いいんじゃないか? 専業主婦じゃなくても」
「いや、結婚後も働きたいって話じゃなくて……」
美緒は冴江に視線を移した。
「お母さん、佐井さんと二人きりで会いたいんだけど」
冴江が片眉を上げる。
「あらそう。じゃあ後で連絡を取るから」
「うん」
軽く驚いた様子で、拓真が美緒に訊いた。
「なんだ? もう決めたのか?」
「うん」
「もっとゆっくり考えていいんだぞ」
「うん、でももう決めた」
「…………」
拓真は美緒をじっと見つめ、それから大皿に盛られていた塩焼の豚ばら肉を手で掴む。
「お父さん、手掴みとは豪快な」
「……無性に、肉が食いたい気分になってきた。優牙、もっと持って来い」
キッチンから優牙の不満げな声がした。
「ああ? 朝からまだ肉食うのかよ」
「いいから持って来い」
「分かったよ」
優牙の大きな溜息が聞こえる。
拓真は鋭い牙で、肉を食いちぎった。
「おおう、ワイルドでしゅ」
そして二日後――。
「こんにちは。返事聞かせてくれるんですか?」
以前見合いをしたホテルのロビーで、美緒は猛と会っていた。目の前に座る猛に向かって、美緒はきっぱりと言った。
「はい、お断りします」
猛が軽く目を見開く。
「何故?」
「…………」
美緒は深呼吸をして、猛の目を覗き込む。
「佐井さんは、それでいいんですか?」
「それで、って……?」
「私、やっぱり彼が好きなんです。偽装でも他のヒトと結婚する気はありません」
「でも、こうすれば丸くおさま――」
猛の言葉を、美緒は首を横に振って止めた。
「それじゃきっと、駄目なんです。私も、佐井さんも」
「何が駄目なんです?」
「きっと、何もかも駄目になるんです」
「美緒さん……」
意味が分からない、と猛が肩を竦める。
「何を言っているんです? もっと現実をみましょう」
小馬鹿にしたような態度の猛に、美緒が口を開こうとした瞬間――。
「一番現実が見えてないのは、あなたでしょう?」
突然聞こえた声に、美緒が勢いよく振り向く。
「れ、蓮君……?」
蓮は美緒の肩に手を置き、猛に向かって挑戦的に口角を上げた。
「ひとの彼女、なに口説いてるんですか?」
ポカンと口を開ける猛に鼻を鳴らし、蓮は美緒の腕を掴んで立たせた。
「蓮君、どうしてここに?」
「美緒、帰るよ」
「え? う、うん」
戸惑いながらも、蓮に引かれて歩き始める美緒。猛が去って行こうとする二人を慌てて呼び止めた。
「待って! 君が美緒さんの彼氏?」
蓮が足を止めて振り向く。
「そうですが?」
「じゃあ――」
「僕は、あなたとは違います。二人の仲を認めてもらえるまで美緒の両親と話し合うか、もしくは倒します。あなたと一緒にしないでください」
蓮は「行くよ」と美緒に言い、まだ何か言っている猛をもう振り向くことなく歩いた。
「れ、蓮君、なんでここに?」
どうして蓮は、自分がここに居ることを知っていたのか。混乱する美緒に、蓮は冷たい声で言った。
「美緒、どうして僕に黙って他の男と会うんだい?」
「へ?」
「そういうの、二度と許さないから」
「……はう!」
ギュッと腕を掴まれて、美緒の背に悪寒が走る。
蓮が美緒をタクシーに押し込み、運転手に「出してください」と告げた。蓮の家に行くのか、そう美緒は思っていたのだが、景色が流れてタクシーが着いたのは――美緒の家だった。
「ええ!? 蓮君、今うちにはお父さんが――」
「だから何?」
「……いいえ」
蓮の鋭い視線に何も言えなくなり、美緒はタクシーから降りて、自宅を見上げる。
「うう……修羅場の予感」
「早く入るよ」
「はいぃ……」
玄関を開けて家の中へ入り、リビングまで行くと、そこでは冴江がひとりでテレビを観ながらお茶を飲んでいた。
「お帰り。犯人はこの女だと思うんだけど、美緒はどう思う?」
「え? いきなりそんなこと言われても……」
どうやら冴江は、サスペンスドラマを観ているようだ。
「『愛憎逃避行。行きつく果ては、永久の闇か、はたまた温泉か。寿司、カニ三昧、おひとり様五千円、添乗員付き。フルーツ狩りも楽しめます。出発進行殺人事件』」
「……もしかして、それがドラマのタイトル? 絶対面白くないよね、このドラマ。てゆうか、ただのお得なバスツアーじゃない」
「焼肉食べ放題が付いてたら完璧だったのに。実におしい」
「そこはそんなに悔やむところじゃないのでは……」
唸る美緒。その横から、蓮が一歩前に出る。
「こんにちは」
冴江は、わざとらしく驚いた。
「あら~? 美緒はお見合い相手に会いに行ったんじゃなかったの?」
「そのお話なら、お断りさせていただきました」
「ふーん、情報元は優牙?」
蓮が口角を上げ、冴江を見据える。
「美緒は僕のものなので、勝手なことをされては困ります」
冴江が目を眇めた。
「だって、最近亀裂が生じているみたいだったから、やっぱり狼人間同士がいいのかなあと。親心よ」
「へえ、そうですか。ところで、ご主人は?」
「し・ご・と」
短く区切って言い、冴江はテレビを消して立ち上がる。
「いつお戻りに?」
「さあ、時々は戻ってくるんじゃない? さて、私もそろそろ行こうかな」
うーん、と伸びをして冴江はドアに向かって歩き出し、その途中、蓮の肩に手を乗せた。
「美緒をお願いね。これでも大事な娘なの」
耳元で囁くように言われ、蓮が肩を竦める。
「分かってます。脅されたことですし、ね」
「やだ、私がいつ脅したっていうの?」
「美緒は僕のものなので、他の男の元にはやりませんよ」
「そう、ならばそれだけのものを示しなさい」
蓮の肩をポンポンと叩き、冴江はリビングから出て行った。
「え……? 行っちゃった?」
美緒がポカンと口を開ける。
「行ったみたいだね。お茶でも飲もうか」
「うん……。それにしても――、なんていうか、なんだったんだろう?」
もっと強引に結婚をすすめられると思っていたのに、あまりにもあっさりと引いた両親に、美緒は拍子抜けしてソファーに座りこむ。
「それだけ美緒が、ご両親に愛されているってことじゃないのかい?」
「え? そうなの? そういう締めくくりでいいの?」
首を傾げる美緒にやわらかい笑みを返し、蓮はお茶を入れるためにキッチンに向かった。