最終話 ただひとつの条件
彼女がその後どういう大人になったのかを僕はまったく知らない。客と商売人である僕らの関係では互いの風の噂なんか届くはずもない。だから僕には想像することしかできなかった。大人になった彼女の姿を。
果たして彼女は成れたのだろうか。彼女の考える理想的な大人に。我々のような澱んだ心を持った大人ではなく、物語に出てくるような澄み切った心を持つ大人に。
——そんなことはありえない、と僕は思った。あるいはそのままの心を持ち続けていたとしたら、きっともう彼女はこの世界にはいないだろう。
残念なことに、清純な心のままで生きていけるほど我々の世界は優しくはない。我々の生きるこの世界はチンパンジーのように残酷で、ハイエナのような狡猾さに満ちていた。あるいはヒトそのものだと言ってもいいかもしれない。ひとつの癌細胞がやがては全身にまで広がっていくように、残酷で狡猾な種として生まれたヒトという細胞に隅々《すみずみ》まで汚染された世界。
そんな世界で生きていくためには多くの犠牲が必要だった。
そしてそれらの犠牲を払わなかった者たちは破滅への道を進むか、あるいはそれでも生きていこうとするのなら覚悟を決めなければならなかった。他人を顧みず、不完全さを受け入れ、妥協する覚悟を。
その事実に気づくまでは僕もずいぶん苦しんだ。世の中の不条理さに悲しんだし、彼女とおなじように誠実さの仮面をかぶって生きている人間に対して強く苛立った。
ロードバイクで旅をしていた頃は僕もまだ純情で未熟だったから、きっと世界のどこかには楽園があると信じていた。子どもの頃に抱いた理想を捨て去ることなく、自らの心に従って生きていけるような楽園が。
でも、そんなものはどこにもなかった。少なくとも僕には見つけられなかった。どこまで行っても人間の住む世界は刹那的で、糸で紡いだような欺瞞に包まれていた。
だからいつしか我々は諦めた。崩壊しそうな心を守るために、これ以上世界に失望しないために、我々は自分以外の存在を諦めた。
しかしそんな我々を彼ら——犠牲を払った者たちは非難する。彼らには直接関係がないはずなのに、まるでどうにもならなかった世界への苛立ちをぶつけるかのように。
そしてまた彼女たち——楽園を信じる者たちも同様に我々を軽蔑する。彼女たちの先には無限の可能性が続いているはずなのに、まるで自分たちの未来を重ねるかのように。
もちろん我々が他人を顧みることを諦めた以上、実際に我々の行いによって傷ついた者たちがいたであろうことは否定できない。いや、事実としていたのであろう。
でも、だからといって頭ごなしに糾弾されるべきなのかと僕は疑問に思う。
彼らは気づいていないか、あるいは見ようともしていないのだ。大多数の倫理に基づく常識という名の裸の王様を守るために、それによって救われる少数の命が見殺しにされることを。
彼女たちはまだ知らない。稚拙で胡乱な意見だとしても、多くの人が信じることで真実となるこの世界の不合理さを。
もちろん僕に我々のやっていることを正当化しようというつもりは全くない。彼ら、あるいは彼女たちの立場からすれば他人の不幸を商売にするような人間は地獄に落ちるべきだと思うし、犯罪者が少数の人々の救いになっているからといって罪が帳消しになるとも思っていない。
だから結局のところ、これまで長々と語ってきたが、僕が言いたいのは次の一言に集約される。
——キミたちは神にでもなったつもりかい?
我々がヒトである限り、世界のすべてを知ることは到底不可能なはずだった。世界のすべてを知れるほどこの世界は狭くはないし、ヒトは万能ではない。
それなのに、仮初めの雲にひそむ正義の使者たちは限られた情報だけですべてを知った気でいる。まるで試験範囲の勉強をするだけで頭が良くなったと信じる学生のように。そこには恣意的な歪みがあるかもしれないというのに。
明らかにそれは理に反しているし、傲慢で滑稽な考えだった。
何が正しくて、何が間違いかなんて、我々人間に判断できるはずがないのだ。一見すると悪にみえることでも、調べていくうちに実は善だったということなんてこの世界にはいくらでも存在する。
だからこそ我々は手の届く範囲の世界でもがいていくしかないのだ。情報に踊らされることなく、たとえ理想通りではなかったとしても、自分が選んだ道を信じて。
それがこの不合理な世界を渡っていくためにできる、〝たったひとつの冴えたやり方〟だ、と僕は信じている。
そんなことを最近になって僕は考えるようになった。きっと世間で言うところの定年が近いせいだろう。
あるいは、と僕は自嘲した。あるいは意味を求めているのかもしれない。僕の歩んできた人生が実りあるモノであったと信じるための意味を。
いずれにしろ、僕自身が既に外界への耳を閉ざしてしまっている現状では、僕の言葉は戯言以外の何物でもない。結局はいくつものフィルターを通して淹れた薄味のコーヒーのようなものだった。
僕の言葉で何かを感じ取ったとしても、それは僕の手柄ではないし、むろん責任でもない。キミたち自身が生きていくために封印していた想いを、キミたち自身が呼び起こした結果に過ぎないのだ。
そして僕は僕に霊媒師という生き方を教えてくれた人とおなじようにチラシを作ることにした。後継者を募集するためのチラシだ。
職歴、年齢不問。ただひとつの条件として僕はある項目を設けた。それは霊媒師として生きていくのみならず、世界を生きていくために必要な項目。神の子が地上に降誕する以前より存在する知識を確かめる項目だった。
完成したチラシを見て僕はふいに彼の言葉を思い出した。
——『誠実であること、実直であること。それこそが我々を霊媒師たらしめるんだ。そしてもしもそれを忘れてしまったら、我々は霊媒師であるどころか、ヒトでさえなくなってしまうんだよ』
事務所の前にチラシを貼ってから一ヶ月後に希望者から連絡があった。何度か彼女と連絡を取り合い、今日の十五時から事務所で面接を行うことになった。時間が来るまでのあいだ、僕は穏やかな潮騒に耳を傾けながらコーヒーを飲んで過ごした。
約束の時間の三十分まえになって、僕はスーツに着替えることにした。職を探していた時代のスーツだ。あの頃よりも体型が変化したため幾分か窮屈になっていた。見てくれは悪いが、誠意は示せるだろう。
それでも念のため僕は姿見の前に立ってみることにした。もしかすると見過ごしている汚れやほつれがあるかもしれないと思って。
僕が姿見の前に立つと、鏡の中にはくたびれたスーツに身を包み、覇気のない瞳を宿した男がいた。これが世界を生きていくために必要な代償だとすれば、神は本当に残酷な存在だと僕は思った。
しかしいずれにしろ、これではやはり着替えた方がいいかもしれない。
でも、どうやら遅かったようだ。
僕が着替えを探すためにクローゼットのなかを物色していると、背後から来客を告げるインターホンの音が響いてきた。
僕はあわてて玄関まで出迎えにいくと、緊張のせいか表情をこわばらせていた彼女に向かって笑いかけた。
「——待っていたよ。さあ、どうぞ中へ。汚いところだけどね」
(了)