第四話 さざなみに消えた言葉
僕が彼女の依頼を受けたのは十年ほど前のことだった。
なけなしのバイト代を握りしめて彼女は僕の事務所までやってきた。彼女は母親と妹を亡くしていた。交通事故だったそうだ。
『——お願い! もう一度妹と話がしたいの!』
学校の帰りに寄ったのだろう。制服に身を包んでおしゃれなリュックを背負っていた彼女は明らかに未成年だった。本来なら未成年からの依頼は断るのだけれど、瞳に宿った気迫におされた僕は彼女の依頼を受けることにした。
それに考えてみれば、お金を払ってくれる以上、未成年だろうが客は客である。霊媒師が未成年相手に商売をしてはいけないという決まりなんてない。あるのはただ倫理的な問題だけだった。
『構わないよ』と僕は言って笑った。『お金さえ払ってくれればね』
『……ありがとう!』と彼女は本当に嬉しそうに微笑んでいた。
それから僕は彼女に様々なことを質問していった。彼女の妹の性格や話し方、考えごとをする際の癖や趣味嗜好に至るまで、本当に様々なことを。
もちろんそれは彼女の妹という人格を正確に把握するための作業だった。ここで集められる情報の量次第で、依頼の成否が分かれると言っても過言ではなかった。
二週間ほど綿密な対話を重ねた後、僕は十分なデータを集め終えたと判断し、彼女の妹の霊を降ろすことにした。
事務所の奥に設置された降霊所に僕らは移動した。霊を降ろす場に相応しいように雰囲気を合わせた部屋のなかを物珍しげに眺めている彼女をよそに、僕は彼女の妹になりきるべく意識を集中させていった。
彼女の妹は明石恵という名だった。享年は十四歳、明るく社交的な性格で、誰からも好かれるような女の子だったらしい。メーテルリンクの『青い鳥』が大好きで、バスケ部の先輩に淡い初恋をしていて、歌手になりたいという夢を持っていた。
しかし突然の事故でその命を奪われた。祖父母の家に向かう道すがら、母親の運転する車にトラックが突っ込んできたそうだ。ありふれた事故だった。
『……なんでわたしじゃなかったのかな』と彼女は今にも崩れ落ちそうな様子で語っていた。『わたしが代わりに死ねばよかったんだ。なんの夢も取り柄もないわたしが……』
放っておくとそのまま深淵にまで落ちてしまいかねない彼女の姿に、たまらず僕は言葉をかけた。
『そんなことを言うもんじゃないよ。確かに肉親の死というのは悲しいことだ。ましてキミが亡くしたのは妹で、姉として代わってやりたかったっていうキミの気持ちもわからなくはない。でも、事実として亡くなったのはキミの妹で、キミは生きてるんだ。どんなに泣いても、どんなに願っても、それは変えることのできない現実なんだ。
だからキミは前を向いていかなければいけない。決して変えることのできない悲劇を嘆くんじゃなくて、これからの未来のために立ち直る努力をするべきなんだ。
でも、そのときに頼るべきなのが時間であってはいけない。時として、我々は悲しさを癒してくれる時間の優しさに縋りたくなる。時間がささやく心地の良い甘言に身を委ねてしまいたくなるものだ。けれど、時間は我々を待ってはくれないんだ。我々に優しく寄りそう陰で、傷ついた我々を嘲笑うかのように無情に時を刻み続ける。
だからいざ悲しみが癒えて日常に復帰しようとしたとしても、そのときにはもう手遅れになってしまっていることが往々《おうおう》にしてあるんだ。あたかも浦島太郎のようにね』
『……じゃあ、どうすればいいの』と彼女はぽつりと呟いた。『貴方は立ち直れって言うけど、悲しみが癒えるまで待っちゃいけないって言うんだったら、わたしは、一体どうやって立ち直ればいいのよ』
『簡単なことさ』と僕は言った。『一歩でも前に踏み出せばいいんだ。から元気でもいい、誰かに背中を押してもらってもいい、無理矢理にでも一歩を前に踏み出すこと。立ち直ろうとする姿勢を見せること。日常の中へと戻り、何も変わらない生活を送る努力をすること。それが残された者ができる唯一の悲しみに対する対処法であり、我々を愛してくれていたであろう死者への何よりの手向けになるんだよ』
僕は和尚や住職、あるいは牧師や神父ではないから、普段ならこんなふうに説教じみたことはしなかった。ましてや他人をカボチャとみなす我々の信条からすれば、たとえ相手がこのままでは消えてしまいそうに見えたのだとしても、それはあり得ないことだった。
じゃあなぜ彼女にだけはそうしたのか。あるいは重ねていたのかもしれなかった。彼女の境遇に僕の過去を。
『……わからないよ』としばらく経った後に彼女は言った。『貴方の言うことは、よくわからない。わたしには、ただの都合の良い理想論に聞こえるわ。悲しみのなかで前に踏み出せるほど、わたしたち人間は強くないもの』
『かもしれないね』と僕は笑った。そしてそれっきり何も言わなかった。
そういったやりとりがあった後に僕は彼女の妹の霊を降ろすことにしたわけだった。けれど、それはやっぱり失敗だったと思う。あくまでも僕らは霊媒師と客としての範疇からはみ出すべきではなかったのだ。助言なんてせずに、ただ彼女の妹の霊を降ろすだけにとどめるべきだった。
そうすれば、真実を知ったときに彼女が傷つくのも最低限で済んだかもしれないし、僕もいたずらに心を乱す必要なんてなかったかもしれなかった。
もう何度も述べてきた通り僕はホンモノの霊媒師ではなかったから、彼女の妹の霊を降ろすことはできない。もろんそこに明石恵という魂なんてものは存在しない。まったくの他人である以上、我々が演じる死者と生前の彼女たちでは細かな印象はだいぶ違うはずだった。
だけど大抵の場合は上手くいく。なぜなら既に述べた通り、我々と彼らとの間には共通した意識があったからだ。アイドルとオタクのような関係の意識が我々の間に流れていたからこそ、ニセモノの霊媒師という職業の存在が許されていた。
だから彼女のように、霊媒師という職業を本気で信じ、求めている者たちにはその法則が通用しなかった。あたりまえだ。彼女たちには夢に騙されたいという意識がなかったのだから。
彼女の妹を演じる僕を見て、はじめ彼女は怪訝な様子で眉をひそめていた。何らかの必要な儀式であってほしいという希望を抱いているかのように、じっと僕の振る舞いを見守っていた。
しかしそうではないことがわかると、彼女は眉間にシワがよるほど固くまぶたを閉じ、それから失望の色をあらわにした。
『ねえ、どうして……どうしてそんなことをするの……?』
彼女の声は悲しさと怒りに満ちていて、表情は今にも泣き出しそうなくらいに歪んでいた。
『嘘、だったの……? 霊と話ができるっていうのは、嘘だったの?』
僕が答えないでいると、彼女はこぼれ落ちた涙を拭うこともせずに叫んだ。
『——なんで! どうして! 立派な人だって思ってたのに!』
霊媒師になろうとする者は、時として、純粋な涙が心をえぐる凶器になりうることを知っていなければならない。
だから初めから良心を持ち合わせていない者が多い。心のネジが二、三本平気で外れているような者だけが霊媒師としてやっていける。たとえ初めは持っていたとしても、彼のように次第に心を擦り減らせていき、いずれ他人をエキストラのように思い始める。
そしてそれは僕もおなじだった。
多くの霊媒師や占い師、あるいは詐欺師とおなじように、彼女の言葉はひな壇に座る芸人の声か、あるいはカーラジオから流れるパーソナリティの声のように僕の心を素通りしていった。
僕の心を動かしうる可能性のある言葉はもう過去の幻影の中にしかない。
彼女は去り際、僕に背中を向けながら吐き捨てるように言った。
『……わたしは貴方みたいな大人には絶対にならない。ひとを騙して生きていくなんて最低よ、貴方』
乱暴に締められたドアの音が拒絶を告げる汽笛のように事務所のなかを木霊していった。
——騙しているわけじゃないさ、と僕はそっと心に呟いた。ただ傷ついている心を和らげたい。本当に、そうしているつもりなんだよ……。
しかし僕の呟きはさざなみに溶けるように消えていった。誰の耳に届くこともなく、行き先を決めず旅立った悔恨のような響きだけを残して。