第三話 共通した意識
霊媒師という職業について彼は占い師みたいなものだと言っていたが、僕が実際にやってみた印象から言うと、それは占い師というよりもほとんど役者のようなものだった。
それぐらい霊媒師という職業は高い演技力が要求される仕事だった。占い師も演技力が必要とされるのかもしれないが、その要求量は我々霊媒師と比べるとずっと低いに違いない。
僕は詐欺師という職業についてあまりよくは知らないけれど、ドラマや小説で見る限り、あるいは占い師や役者よりも我々にずっと近いのかもしれなかった。
僕が彼のもとで働き始めて最初の数年は見習いとして過ごした。いわゆる書生として彼の身の回りの世話や雑用をこなしながら、霊媒師として生きていく方法を学んでいった。
霊媒師について、あるいは人生の生き方について学ぶうえで、彼はほとんど理想的な存在だった。
霊媒師としてのそこそこの知名度と実績を持ち、社会の荒波を越えてきた者だけが持てる独自の人生観を備えている。
そして何より僕にとって僥倖だったのは、彼が人に教える才能に富んでいたことだった。僕が今まで会ってきたどんな教師たちよりもずっと。あるいは有名な予備校の講師になれそうなくらいに。
だから僕が霊媒師になるためにしたことといえば、ただ彼の組んだカリキュラムを疑わずに実行したぐらいだった。
彼のもとで僕は霊媒師を求める多くの人たちを見た。ほとんどが年寄りばかりだろうと予想していたけれど、意外にも若い客も多かった。
彼らはさまざまな理由から霊媒師を求めていた。ある者は単なる好奇心で、またある者は後悔から。生前の死者との間にあった確執を解消したいという人も、ニセモノであるはずの霊媒師を嘲笑いにきたという人もいた。
しかし彼はそれらの理由で客たちを差別せず、どんな客にも丁寧に対応していった。
『——我々は彼らに対して誠実でなければいけないんだ』と、彼はいつも口癖のように言っていた。『誠実であること、実直であること。それこそが我々を霊媒師たらしめるんだ。そしてもしもそれを忘れてしまったら、我々は霊媒師であるどころか、ヒトでさえなくなってしまうんだよ。たとえ相手がどんなに無礼千万な輩だろうとね。なぜだか分かるかい?』
もちろん当時の僕には彼が何を言いたいのかを理解することはできなかった。一体この人は何を言っているのだろうといつも訝しんでいた。霊を装っているという揺るぎのない事実が彼の言葉の正当性を失わせていた。誠実という言葉は、他者と真剣に向き合っている者だけが使える言葉だと僕は思っていた。
だけど後になって僕は気がついた。誠実であることと真剣に向き合うことは似ているようでまったく違うモノだということに。前者は自分の心行きだけを示しているが、後者は他人という存在を認め、時には責任を負わなければならない。
そしてさっきも言った通り、自分以外の存在を軽視する世界で生きていた彼に責任を負うことはできない。彼にとって他者はみな人生という名の劇場を彩るジャガイモやカボチャでしかなかった。ゆえに彼は客と真剣に向き合うことはできなかった。
だから彼はせめて誠実であろうと努めたのだろう。曲がりなりにも自分という人間に価値を見出してくれた人たちに対して。たとえ偽善に過ぎないとしても、それが彼の心を現実に繋ぎ止める最後の防波堤だったのだ。
そしてそれを実践していたからこそ、彼が扮した霊との対話を終えた客はみな穏やかだった。朗らかに彼と談笑し、納得した表情を浮かべていた。彼の手を取りながら感謝の涙を見せる人さえもいた。
しかし僕はその姿を見てなんだかひどく奇妙な感情に囚われていた。
初めは罪悪感だと思った。嘘つきは泥棒の始まりであり、糾弾されるべきだという真っ当な教育を受けてきた僕にとって、それは覚えて然るべき感情のはずだったから。
でも、どこか違うような気もしていた。いちご大福にホイップクリームをかけて食べたときに覚えるような違和感が、そうした場面に遭遇するたびにずっと僕の胸を刺激していた。
いったいこの感情の正体は何なんだろう。
僕がその正体を理解したのは、見習いとしての生活が二年目に差しかかる頃だった。
その頃には徐々に僕も降霊の場に立ち会うようになっていた。彼とおなじ格好をし、ときには彼の代わりに客たちの話し相手を務めることもあった。
だから僕を霊媒師と勘違いしたのだろう。あるときひとりの客が傍に控えていた僕のもとまでやってきた。そして僕の手を取りながら瞳に涙をにじませて言った。
『——ありがとう。最後の言葉を聞かせてくれて、本当にありがとう』
僕はそのとき初めて僕を襲っていた感情の意味を理解し、そして霊媒師という職業についての認識を改めた。
あるいはこの時の経験があったからなのかもしれない。僕が霊媒師として生きていくことを本当の意味で決めたのは。
そうして彼のもとで五年を過ごした後、僕は彼から免許皆伝を受けて見習いを卒業し、晴れて霊媒師を名乗ることを許された。
独立することになった僕は海の見える小さな港町に事務所を構えた。僕ひとりでやっていけるかどうか心配だったけれど、幸いなことにそれは杞憂に終わった。
どうやら僕は霊媒師として生きていくのに必要な少しばかりの運と、死者を騙れるだけの十分な演技力を持っていたらしい。
彼のコネで何件かの依頼を達成するうちに評判を得て、そこから順調に実績を積んでいくことができた。
雑誌やネットニュースで紹介され、一度だけテレビに出たこともある。テレビといっても、霊媒師の実在性を証明するような番組ではなく、初めから存在自体を信じていないような番組。嘘で塗り固められた人物をいかに滑稽に放送するかに挑戦する番組だった。
しかもそれだけでは飽きたらず、番組を盛り上げるための役者が用意されていて、僕自身ほとんど台本通りに喋るだけの仕事だった。
もちろん初めは断るつもりだった。そんな霊媒師を貶める意図を持ったプロパガンダ番組に出演するデメリットこそあれ、メリットは何もないと思ったから。でも結局僕はそうしなかった。名前を売ることのメリットを見出したからだった。
番組が放送されると彼らはこぞって僕のことをインチキだ、詐欺師だなんだと新聞や雑誌に書き立てた。酷いものでは、僕を血も涙もない拝金主義者と非難する媒体もあった。
予期していた通りのこととはいえ、さすがに笑ってしまった。よくこれだけひとりの人間を攻撃するような内容の記事が書けるものだと感心した。あるいはライターという職業こそが拝金主義者なのではないかと勘違いしてしまいそうだった。
けれど記事の内容自体はそんなに間違っているわけじゃなかった。我々が霊を騙っていることに変わりはなかったし、拝金主義者は言い過ぎにしても、お金を稼ぐことは生きるために必要であったことも否定できない。
だけど、そうだからといって非難される謂れは何もない。たとえこの世界に住むほとんどの人が我々を必要としていなくても、我々を望んでいる人たちもいる。買い手がいるからこそ、職業として成り立っている。世の中とはそういうものだった。
幽霊の存在を信じたい者たちがいる。嘘でもいいから希望に縋りたい人たちがいる。我々が目を向けなければならないのはそうした人たちで、ある意味で我々と彼らとは共通した意識で繋がっていた。互いが互いから得られる利益を貪り食おうとする相利共生的な意識。
でも、極たまにそうした意識を持っていない客もいた。それは一定数いる、罵声を浴びせたい人とも、あるいは話のタネに呼んでみたという人とも違う。
霊媒師という職業を本気で信じているからこそ、いたずらに精神を疲弊させることになる存在。
彼女もそのうちの一人だった。