サイクロイドの果て
第一部
1.再始動
「うわー、きれい!」
ミユキは思わず声をあげた。ニセコ グランヒラフ 花園第三リフト降り場から見える景色は、息を飲む美しさだ。羊蹄山、別名蝦夷富士はその名に恥じない、見事なコニーデ火山の威容を誇る。ミユキは白く雪を冠したプリン型の姿を真正面に見ながら、人気の少ないゲレンデに立っていた。
引退してから丸一シーズン、板は履かなかった。履くのが億劫だった。17歳で初めて出場したスキーワールドカップ。引退する30歳まで14年間、スキーレースに明け暮れた。引退時は文字通り、身体も心もボロボロだった。前の年までレース三昧だった時期に温泉に出かけて一日ぼーっとしたり、東京まで出かけて買い物したりがとても新鮮だった。 楽しかったが、何か物足りなかった。その物足りないものがスキーであるのは明らかだったが、レースに戻る気は全く起きなかった。諏訪の自宅で母と洗濯をしていた時、母が「ミユキと一緒に洗濯なんて、初めてだよ。」と笑ったとき、あー、引退して良かったと心から思った。
しかし、雪はやっぱり好きだった。東京でのスキーの展示会にゲストで呼ばれたときに見たパンフレットの雪山が羊蹄山だった。『ここでスキーしたい!』 そう思った自分に驚いたが、迷いはなかった。レーシングから一番遠いスキー、それがニセコなのは明らかだった。
レース用の、全く遊びの無い、まるで日本刀のようなレース用スキー板に比べたら、今日の板はバターナイフのようだ。切れ味はそれほどないが、気持ちよく雪面を舐めてくれる。身体に優しい、とミユキは感じていた。
「ミユキさあ、ニセコに籠るんだって? じゃあ、ウチの板使ってくれよ。俺が命かけて開発した板だからさ、パウダーもゲレンデもすっげー気持ちよく飛ばせるから。」
シーズン前、子供の頃からヨーロッパのレースにも良く一緒に行っていた合田康治が電話をかけてきてくれた。合田は札幌にある小さなスキーメーカーの開発部長だ。社長のイニシャルから、FSKI と名乗っているメーカーだ。エフスキーの「μ」が今日からの相棒。ミユキの愛称「ミュー」から社長の藤田がつけてくれた、ミユキのシグネチャーモデルだ。
「μ(ミュー)って、いい名前だろ。μって摩擦係数だしさ、スキー板にはバッチリだよな。サイドカーブは俺がテストして決めた、R15。ミユキには少し小さいかも知れないけど、コブも滑るにはこのくらいが良いと思う。ワックスは自分で塗ってくれな。世界のミユキがどんなワックス使ってきたのか三流レーサーだった俺にはわかんないからさ。」
「ありがとう、ヤッチ先輩。」ヤッチこと合田の心遣いが嬉しかった。子供のころから、ミユキはワックスにうるさかった。ワールドカップの第一シードに入るまでは、サービスマン任せにせず自分でワクシングしていたほど、こだわっていた。今回も、まっさらな板をもらってから、10回以上もワックスを「入れて」滑る滑走面を作ってきた。新しい板は、そのままでは滑らないのだ。
大きく息を吐く。30秒。 強く吸い込んでから、ハッ!と気合を入れて2ターン。 花園第三の壁まで一気だ。ニセコは初めてである。まずは少しずつ確認しながら滑ろうと決めていた。それにしてもさすが北海道だと思う。まだ11月だと言うのに、ブッシュも石も出ていないゲレンデ。居候先の小田切のおじちゃんは、もうオフピステ(ゲレンデ外のパウダーゾーン)も結構滑ることができるはず、と言っていたが、本当にそうかもしれない。板の性能は、期待以上だ。狙ったラインをトレースできるし、滑りも悪くない。ヤッチ先輩、やるじゃんと笑みが込み上げてきた。
空いているが、先客が数人滑っている。みんなヘルメットを被っている。急斜面の上で止まっているミユキの右側から、少し足元がおぼつかない大柄な男性が、ゆっくり降りていく。花園ゲレンデの左右には林。 ゲレンデの幅は100mほどもあるだろうか。 急斜面の中腹には、赤いウェアに赤いヘルメットがかわいい小さな女の子とその母親と思われる女性が立っている。多分、オージーの親子だろう。 ミユキはあの2人が急斜面を降りきったら、飛ばして行こうと準備した。右を確認して、下に目をうつす。
その時だった。
「No------!!!! Sto-------p!!!」 と大声が先ほどの親子の方から聞こえてきた。見ると、先に滑ったらしい母親が上を向いて叫んでいる。その視線の先には、赤いヘルメットの子が直滑降だ。速い。それも、林に向かって一直線だ。このままではノーコントロールのまま立ち木に激突する。
「ヤッ!!」気合一発、ミユキのストックが雪面をたたきつける。スケーティングで女の子に向けて限界加速だ。30度の斜面でクローチングを組んだ瞬間、アドレナリンが大量に放たれ、景色が後ろに飛んでゆく。みるみる赤いヘルメットとの距離を縮めるミユキ。
『間に合う! 絶対に木に衝突なんかさせない。待ってて。大丈夫。』修羅場を何度もくぐってきたミユキの精神は冷静だった。絶対に届く自信があった。斜度、距離、女の子のスピードから瞬時に大丈夫だと計算していた。
『いいわ。このままの加速ならあの子の左側に入って右手で抱っこできる。右にゆるくターンしてゲレンデに逃げればOKよね。』
オージーの母親はミユキの行動を理解したためか、あまりの速さの直滑降に驚いたためかわからないが、声を発するのをやめている。
時速100kmほどに加速した、レッドパープルのミユキのウェアがヒラフの空気を切り裂いてゆくが、女の子と立ち木の距離もどんどん縮まっている。板が整地されたゲレンデから、脇の未圧雪部分に入った。あと少し。
異変はこの時起こった。ミユキの板が突然滑らなくなったのだ。転倒こそ免れたが、大きくバランスを崩し、クローチングが崩れわずかに上体が起きた。 滑らない板と、起きた上体が女の子との距離を縮めてくれない。ミユキは左に身体を入れるのは諦めた。素早く右のストックを逆に持ち替え、グリップで女の子のウェアのフードをひっかけて転ばせる作戦に変更だ。
「届けー!!!」 女の子と木の距離10m。ミユキのストックと女の子の距離は20m。
「お願い、転んで!!!」日本語で叫ぶ。
『アー、ダメ?。。。。板が滑ってくれない!グリップ一つ分届かないかも。』
ワールドカップでもオリンピックでも届かなかった金メダル。 今日はあの子に届かないの? 神様、そんなに私が嫌い?今日だけお願い、間に合わせて!ミユキは右手を限界まで伸ばしながら祈った。