Ⅷ
目の前が揺れる。レオナルドの頭の中で大きな音が響いていた。それは、警鐘。
「何で……なんだよ………………」
レオナルドには理解出来なかった。レオナルドはサイロの事をよく知っている訳ではない。しかし、知らず知らずのうちに彼を信用してしまったのも分かっていないだろう。レオナルドは信用した人間に裏切られたような気分だった。それはこれ以上無い屈辱や絶望感、虚無で満ちている。レオナルドは足元が崩れていく音を聞いたような気がした。
「何でって、君には分からないでしょ。僕みたいな、金も、権力も、身分も無い人はこうしなきゃ生きていけない。これは生きるために必要だった。だからやったって、それだけ」
サイロの口調は淡々としていた。淡々としている分、裏側に隠された怒りや諦めが垣間見えた、レオナルドはそう感じた。彼は淡々と話していたが、無ではなかった。
「っでも……何で盗むって方を選んだんだよ! 俺に話して、貰うとか他にも方法があっただろ!? どうして盗みにしたんだよ!!」
レオナルドは必死だった。何故、が彼の胸の中を駆け巡っていた。
「仕方ないでしょ、頼むのも貰うのも、選択肢には入って無かったんだから。僕みたいに生きてる奴って、大抵他の奴から与えられるなんて事無いんだし。それが生き方になっちゃってるんだったら、どうしようも無いでしょ?」
「選択肢に、無い…………?」
「奴隷の子に、汚いっていう感情を持っても、可哀想だなんて思わないってことだよ」
サイロの瞳を見て、レオナルドの身体はすくんだ。冷え冷えとした瞳だった。蛇のような金の目はあまりにも冷淡で虚ろで、侮辱を孕んだ光を称えていた。恐ろしい。人間に対して、レオナルドが初めて抱いた感情だった。
視界が揺れる。両手に冷たい感触があった。訝しく思って手元を見ると、力無くくたりと曲がった足と雪についた手に気が付いた。視界が揺れたのは、座り込んだかららしい。みっともない、情けない。 レオナルドは視線の方を向けなかった。ただ、自分の情けなさを主張する曲がった足を見ていることしか出来なかった。
「…………君、覚悟しといた方がいいよ」
そう聞こえて弾かれるようにサイロを見ると、もう彼はレオナルドに凍てついた視線を寄越していなかった。止まっていた手をまた動かす。その手は、ソリの屋根を木材へと変えていた時のように迷いが無かった。レオナルドは何故かサイロを咎められなかった。少しずつ膨れる麻袋をぼんやりと眺めながら、サイロが今までどうやって生きていたのか考えていた。生活必需品はこうして補充していたとすると、彼の行動範囲は恐ろしく広い。旅人が通る、軽く整備された道まで行くのだとしたら、ここからソリで一日の四分の一程度の時間がかかる道中を歩くとなる。彼はダリクレア山脈の樹海から出てきたのだし、そこまで考えると最早サイロは人間ではないのかもしれないなどと思えてくるのだった。
「……なあ」
ぴくり、と麻袋を持つ手が動いた。八分目程まで膨れたそれを、サイロは慎重に床に置いた。
「何?」
少し愛想が無さすぎたかもしれない、でもどうでも良いかとサイロは思った。彼がレオナルドに冷酷だと思われる所以である。
「お前……そんな生き方してて、何かしたいこととか、あんの?」
「…………本当は君に言わなくてもいいことだけど、君が今後も僕に付いて来るって言うんだったら聞かせなくも無いけど」
「なんだ、それ」
それ以上レオナルドは突っ掛かって来なかった。突っ掛かることが馬鹿馬鹿しくなったのか、突っ掛かる気力が無いのか、サイロは知らなかったし関心も無かった。彼が何時も考えることは、何よりも自分が優先しなければならないもののために彼が出来る最善のことなのである。
「俺、お前に学者の息子だって言ったよな? いつか誰よりも優れた学者になるって」
「……………………」
サイロは黙って聞いていた。レオナルドの方を向くことは無い。麻袋の中のものが少し不安定だったらしい、小さく音をたてていた。
「けど、お前の話聞いて、少し俺も考えて思ったんだ。…………俺、何も知らなかったんだな。これじゃ立派な学者どころか学者になんてなれねえ。世間知らずでずっと居るなんて、そんなんじゃ駄目駄目だったんだ。そうだろ? だから、お前に付いてってやるよ。俺に、必要なのはお前が知ってる生きた知識だ」
「…………そう」
「お前、俺の持ってるような知識が必要なんだろ?だったら好都合じゃねえか」
レオナルドの声には生気が戻っていた。未来を望む、希望を持った若者の声。サイロはそっと目を閉じた。一つ息を吐き、声を出す。
「……分かった、君を連れて行こう。改めて言っとく。僕はサイロ。君の望む学者の形に近付けてあげる」
「レオナルドだ。絶対に、歴史上最高の学者になってやるよ!」
どちらも好戦的な言葉だった。かちり、と視線が合う。双方が同時ににやり、と笑った。彼らはお互いに知る者、知らない者であった。