Ⅲ
(隠れなきゃ……!)
レオナルドはそう思った。幸いなことに、化け物はまだレオナルドに気が付いていない。彼の両親を見ているようだった。
化け物は雄叫びをあげた。レオナルドは焦った。逃げることは不可能だと彼は分かっていた。
「うわああああああ!」
よく知った男の声がした。しかし、レオナルドの頭には届いていなかった。その後に聞こえた女性の悲痛な叫び声も。レオナルドはそこまで隠れることに必死だった。彼はソリの後ろに隠れ、尚且つ自分自身に雪をかけ、周囲と同化しようとしていた。天敵に見つからないために体毛の色を変える動物が居る。彼は知識としてそれを知っていた。冷たい雪が頬に触れる。思わず出そうになった声を押し殺し、石のように身を固くした。
化け物の雄叫びが短く、二度、三度鳴った。勝ち誇ったような声だった。その所以をレオナルドが知ることは出来ない。彼の視界はソリしか映していなかった。鉄のような臭いがした。
(父さん、母さん……死んだのかな。俺も、殺されるのかな。……嫌だ。俺はまだ学者にさえなってないのに。こんな歳で死にたくない……!)
化け物は歓喜の声をあげていた。その度に風が起きた。不吉な風は、壊れかけたソリの屋根を揺らした。
地響きがした。化け物が地面に降りたらしい。その大きな気配はレオナルドに近付いていた。距離があっても、今近付いてくるものが巨大だと手に取るように分かる。レオナルドはそのことが堪らなく怖かった。見つかったら、彼は彼の両親の後を追うことになるだろう。彼には野望があった。叶える前に死にたいなどと思わないのである。いや、叶えたとしても、彼は生を望むだろう。至って「普通」のことである。
(嫌だ、やっぱり死にたくない! 逃げなきゃ、どこか遠くに、こんな奴が居ないところに、ナクラに帰らなきゃ!!)
突然、巨大な足音のしていた方向から猫を踏んづけた時の声を低く、大きくしたような声がした。その声の主をレオナルドは知っていた。知っていたからこそ驚いた。何かが焦げたような臭いが漂ってきた。
(あんな怪物が悲鳴をあげる? 何か燃えてるのか……なんか焦げ臭い。燃えてるってことは、火を使ってるってことだろ? となると……)
レオナルドは考えた。それしかすることが無かったし、今ここから出ていく勇気も無いのである。
(俺以外に、人が居る)
声が聞こえた。遠くて何を言っているのかまでは分からなかったが、怪物の声でないことは確かだった。レオナルド以外に人間が居る。そう彼は確信した。
化け物の声はまだ聞こえていた。しかし、先程までの勝ち誇ったような色は無く、逆に苦しんでいるようだった。何かが焦げたような臭いは強くなっている。それは、鉄の臭いを消し、レオナルドの恐怖を疑問へと変えていった。絵に描いたような化け物を苦しめるなど、原因は一つしか見付からない。レオナルド以外の「人」が化け物を苦しめている。
(人が居るなら、大丈夫かもしれない)
レオナルドは危険だと思いつつも、そっと身体を起こした。状況を確認するためである。かかっていた雪が少し落ちた。彼はソリで身を隠しつつ、怪物の声のした方向へと視線を向けた。
(やっぱり、化け物だ……あんな生き物が居たなんて、知らなかった。というか、人は? どこに居るんだ?って、あれ、化け物が燃えてる!? 本当に何者なんだよ……)
化け物の胸、腹、脚と数ヶ所に火がついていた。化け物は苦しいらしく、うつ伏せになり、身体を雪に押し付けた。その隙を逃さないというように、樹海の方角から二、三個火の玉が飛んできた。化け物の背中が燃えていく。レオナルドはいまだに人影を見つけられない。いつの間にか、レオナルドの恐怖は沈んでいた。しかし、彼はそれに気が付かない。
「くそっ……!」
レオナルドは焦れたようにソリの影から飛び出した。目に入ってきたのは巨大な化け物が燃える姿と、樹海から出て来そうな人影だった。
「見つけた!あいつがこれを……」
けたたましい鳴き声が響いた。化け物はまだ生きていた。レオナルドは今それに気が付いた。化け物の視線はしっかりと彼に注がれている。いつの間にか沈んでいた恐怖が急上昇する。
(まずい、喰われる……!)
レオナルドは尻餅をついた。圧倒的な力に押され、腰を抜かしてしまったのだ。化け物の顔が少しずつ近付く。地面を這いながらレオナルドに接近する化け物の顔は得意気だった。
(終わる……!)
レオナルドはそう思い、ぎゅっと固く目を瞑った。ここまでか、と思われた。
耳を刺すような悲鳴が聞こえた。頭を強く殴られたような衝撃がレオナルドの身体を巡った。レオナルドは麻痺したように動けなかった。急に大きな音を聞いてしまったため、何も聞こえない。レオナルドは恐る恐る目をあけた。目の前にあるものは、翼以外が焦げた今まで生きていた化け物だった。レオナルドは唖然とした。
「ふふっ」
知らない誰かの笑う声が聞こえた。