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最果ての世界へ  作者: 律稀
未知の里、不思議な少女
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 宴の席であるのに、たまにどこか心ここに在らずという表情をするイノアをサイロは案じていた。同時に、レオナルドが自分を見る目がおかしいと薄々感じとっていた。


(僕と別れた後、何かあった……?)


 宙人に話しかけられれば、いつものように笑う。はしゃいだノースがじゃれついても優しく対応する。普段と同じはずであるが、確実に憂いの秘めた表情かおをするのだ。


(イノアが不安になるものなんて、存在する意味無いようなものなのに)


 彼女には、平穏で幸せな日々を過ごしていて欲しい。計画に巻き込んでおきながら、図々しい願いであることサイロはよく分かっていない。彼の生きる意味は、彼女と計画のためにあると言っても過言ではない。彼女が幸せに笑うのであれば、サイロは自分の命を天秤にかけられても迷わないだろう。それをイノアが望んでいるのか、知らない訳ではなかろうが。


(名前の、ことかな。まだ呼んでいないのが、そんな顔をさせるまで辛いことだったの?)


 自分とレオナルドの関係を案じていたのは分かっていた。しかし、そう簡単に警戒心をとける程の人物だと把握していない。向こうがイノアや宙人を警戒する限り、サイロとて寛大にはなれない。

 あおっていた果実水の入った杯を置く。その音も宴の賑やかさでかき消される。笑い声、食器の音、いつの間に持ってきたのか、太鼓を叩く音。この宴の空気にイノアはちゃんと含まれている。宙人に囲まれ、笑っている。ノースははしゃぎながらあちこち動き回っている。大勢が楽しくて仕方がないようだ。元来の性質がそれなのだから当然か。


「……ふふっ」

「サイロ? 楽しんでるのか良かったなぁ」

「ひらいてくれて感謝してるよ、長」


 少なくとも、彼女は今笑っている。それだけでもいい。知らず知らずのうちに笑みが零れているのを、彼は知らない。彼は過去を辿ることで頭がいっぱいだった。





 この世界に一人で放り出された後のことをよく覚えている。時間にして十年なのだそうだが、彼にはよく分からない単位である。奴隷として幼い時から働かされ、勉強をする機会など無かった。あるのは生き物としての本能だけであった。それは知識が無い代わりによく研ぎ澄まされていた。


 当然、ただの奴隷である彼には名前など無かった。彼が名前となる「名詞」を知ったのも奴隷としての仕事で書庫の掃除を命じられた時であった。文字は分からないから、形で覚えた。いつかこれを名前にしようと。名前が付けられたのなら、何かが変わるような気がして、誰にも悟られないように必死で覚えた。最終的に、彼が覚えられた単語は二つ。そのうちの一つしか読み方を知らなかった。形で覚え、誰にも知らせなかった弊害と言えよう。


 ノースの名前は彼が付けた。名前を呼べば嬉しそうな顔をして尻尾を大きく回す。笑いながら彼をご主人と呼ぶ。名前を与えたことに後悔はないが、読み方を知らない名前の付いた自分を不憫に思うことはあった。


 ノースと彼が会ったことは、彼がずっと奴隷として生きていたら叶わなかったことだろう。ノースは元々、貴族の護衛として鍛えられていた獣人の一人だった。獣人達は割り振られた番号で呼ばれ、それは名前ではなかった。貴族を守るためらなば肉壁になることも厭わない護衛になる──それが求められていた。しかし彼の性質上、その生き方は出来なかった。成長しても、彼の心は幼く、望むことは思い切り野原を走り回ることだった。八にも満たない少年なら当然であろう。そんな獣人を、貴族は望まなかった。ナーラ一族の襲撃の前日、彼は暇を出された。行くあてなど無いまま世界に放り出された。ノースは人が好きだった。都合のいいように振り回された時を知っていても、まだ未練があった。隙を見て城に戻ろうと、少し離れた場所で一日を過ごした後、惨劇は起きたのである。


 惨劇を免れた獣人、惨劇の唯一の生き残りであった少年──お互いの姿を認めた時に、どれほど安堵したことか。どれほど恐怖心を抱いたことか。どちらにせよ、お互いに惨劇によって生み出された不幸な人であることに変わりはなかった。それぞれの境遇を話すうちに、恐怖心は消えていった。


「お前も、名前がないんだな。俺は名前じゃないけど、五十三番って呼ばれてた。呼んでた人、居なくなっちゃったけどな」

「……なら、僕が君に名前をあげる」

「……え?」

「ノース。僕が知ってる名前で、読み方も書き方も知ってるやつ。ほら……こうやって書くんだよ」


 煤の積もった地面に、彼は形を綴る。指が黒く染まった。書かれた字は、直線はへろへろと曲がり、曲線の方向は怪しかった。けれど、紛れもなくノースが初めて与えられた「名前」であった。


「……ノース。俺、名前、ノース……!」

「君の名前はノースだよ。これから、よろしくね」


 この時のノースの表情を彼は忘れることが出来ないであろう。喜びを、どうやって表現すればいいのか戸惑っているような。後々で考えると、感情をはっきりと示すノースがこのような表情をすることは、感傷に浸れるほど珍しいことだった。


「ありがとう……!」


 だから彼はノースという名前を与えたことに、後悔はないのである。そんな彼が名前を与えられるのは、アルビノの少女に出会ってからの話である。

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