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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

愛音~あいおと~

作者: 雨野 瑞

【主な登場人物】


風上紫苑かざかみしおん

万里ばんり

東雲奏しののめそう

 私は母のようなピアノ奏者になりたかった。聞くだけで心を奪われるような、そんな演奏家になりたいと思っていた。


 今日も綺麗な音色が風によって運ばれてくる。聞きたくないものだけど、どこか心地よくていつも耳をすませてしまう。

「紫苑、聞いてる? 紫苑!」

「え、何……」

「合コン行くよね?」

「は? 合コン?」

「そう! あんたのことを言ったら相手の人たちが会いたがってさ」

 何勝手に人の事言ってんのよ。……なんて口が裂けても言う気はない。彼女は私の大切な友人だから。




 ピアノから手を退いて早一年。私、風上紫苑が普通の女子高生として生活するようになってから暇を持て余していた。毎日のように放課後は友達とのくだらない付き合い。だけどこれも親友である万理がいてくれたおかげ。だから友達も増え、ピアノのことを考える時間が少しずつ減っていた。

 だけど最近、なぜか休み時間や放課後になるとピアノの音色が聞こえてくるようになった。ようやく忘れようとしているものを思い出させるような音色は耳障りであり、癒しの音。誰が弾いているのかなんて興味はないけど、周りが噂をしているのをよく耳にする。


『ピアノの王子』


そう呼ばれる彼は女子たちの中で噂になっていた。正体は一年音楽科の東雲奏という男子生徒。自分よりも一つ年下の彼は女子たちの中で断トツの人気者らしい。

 でも自分には関係ないから。

 ただその一言で自分の中では片付いてしまう。これ以上音楽に関わりを持ちたくない。事故でピアノを弾く力を無くしてしまった自分の手を憎く感じてしまう。リハビリのおかげで、右手は教科書一冊を持てるくらいには力が戻った。だけどそれ以上のものをもつことはできない。それに比べて左手は鉛筆一本持つくらいしかできなくなっていた。


 事故にあったのはあの男のせい。


 そう言って手が戻るのなら言っている。私は別に自分の不注意で事故にあったわけではない。あの男の人が人にぶつかって車の前に出てしまったことが原因だ。その彼をわたしはなぜかかばった。その人を引き寄せた反動で自分が車の前に飛び込んでしまったのである。

 ピアノに全てをかけていた私は無論荒れた。だけどそれを救ってくれたのは親友の万里だ。両親の海外出張が多いため、私の保護者は万里の両親でもある。親同士が仲良くて幼い頃からのつきあいだった。だから万里は私のことをよく知っている。音楽の話になるとその話からそらしてくれることもあった。

 そんなこんなで今の私が存在する。万里がいなかったらリハビリすらしなかったかも。合コンには興味ないけどそれも万里の一つの気づかいなのだと思う。好きな人をつくらせてその人に支えてもらうとか思ってるに違いない。頭の中をその人でいっぱいにできれば音楽は自然と忘れられるから。

「相手ってどんな人たちだろうね。かっこいいといいなあ」

「万里はいつもそればっかり。紫苑はどんなタイプが好み?」

 自分の好みなんて考えたこともないな。

 首をひねってると万里が隣でニヤニヤとしてきた。

「紫苑のことを引っ張って、守ってくれる王子様みたいな人だよね~」

「だよねって言われても分かりません。万里はどうして王子にこだわるかな」

「だってかっこいいじゃない! かっこ悪い人なんて嫌!」

「確かに! 紫苑って清楚なお嬢様のイメージだから、それをさらに際立たせるようなカッコいい人がいいよね」

 カッコいいとか、かっこ悪いとかの区別がつかない私にとってはどうでもいいこと。万里が納得した相手ならそれでいい。

「紫苑が転校してきた時、どこかのお金持ちのお嬢様かと思っちゃってさあ。他の人には持ち合わせていない気品というか何というか」

「だよね。万里は付き合いやすそうな人だったけど、紫苑は正直付き合えないかと思ってた。だけど実際話してみると楽しいしね」

「そうそう。もし自分が男だったら紫苑みたいな子を彼女にしたい!」

 この人たちと付き合って気づいたことがたくさんあった。まず自分の評価はピアノの音色だけだと思っていたから、自分自身を評価してくれるなんて思いもしなかったこと。手が使えなくても邪魔者として扱わないこと。それと友達がいると楽しいってことに気がついた。



「ねえねえ、紫苑ちゃんって前は聖女に通ってたってホント?」

「うっそ、マジ? 聖女ってあの聖女?」

 聖女とは聖カトレア女学院の略名。ここら辺ではちょっとした有名な学校だ。

 だけどその学校に通っていたからと言って何になるのか。それに通っていたのは私だけじゃない。

「私だって通ってたんですけどー」

 一人ストローをくわえる万里はつまらなそうにこちらを見ている。なぜか私は相手の男子に囲まれていた。そのためか、友人たちはつまらなそうに向かいのソファーに座っている。カラオケ店に来たというのに誰も歌わないこの状況に違和感を覚えるのは私だけだろうか。

「紫苑ちゃん、何か歌ってよ! それとも俺とデュエットする?」

「紫苑とより私たちとしようよ!」

 万里は飛び上がってマイクを手にした。それにつられて相手の男子が乗り気になる。友達もそれに参戦するようにマラカスやらなんやら手にした。

 何だかんだで私はマイクを手にせずにすんだ。マイクなんて持てない。ケータイすらまともに操作できない人が、マイクを持って熱唱などできるまい。それにケータイを以前は持っていたが使えないためすでに解約済みだ。

 だからメアドを聞かれても『ない』としか言いようがない。

「だからないってば。ケータイ持ってないの」

「嘘だ! いいじゃん! 教えてくれたって!」

 操作できないのに持っているはずがないでしょうに。だけどこの人たちは私の手に力が入らないことを知らない。知る由もないが……。

 初めて合コンに参加して知ったことがある。これはたまらなく疲れるということだ。




 家に帰るとさっきまでの騒がしさとはうってかわって、しんと静まり返った空間が待っていた。

「紫苑、お風呂に入るよね?」

「うん。ありがとう」

 私一人じゃ何もできない。扉を開けることも、ご飯を食べることも、服を着ることも、何も、何もできない。

 万里はカーテンを閉め終えて私に向き直る。

「だいぶ長距離歩けるようになったよね。辛かったらちゃんと言ってよね」

「うん。大丈夫だよ。それよりも迷惑かけて」

「それは言わない約束だよ。私は好きでやってるの。謝られたくないよ」

「……うん」

 手だけが不自由なわけじゃなかった。最初は体全体が重くて、力が入らないような状態。だけど少しずつリハビリで解消していったが、完全にはもとには戻らなかった。

 たまに考えることがある。もし、あの時、彼を見捨てていたらと。もし目の前で彼が事故にあってたらと。きっとそれは今よりも後悔をしていたと思う。だから助けて後悔がないわけではないが、助けなかったよりはと思っていたのも事実であって。

「紫苑、来月帰国するって連絡が来たよ」

「うん。今度日本で演奏会が繰り広げられるらしいから、多分それ関連だよね」

「……ごめん」

「別に。仕方ないことだから。両親は大人気演奏家。わたしはその娘。どうやっても関わっちゃうよ」

 音楽一家に生まれたためか、幼いころから音楽が好きで特にピアノの音色が好きだった。だからコンクールとかにも積極的に参加しては賞をもらい、周りの人たちに音色を評価してもらえてた。別に両親のコネで賞などをもらっていたわけではない。もらえない時もあったし、他の人に比べて落ちぶれていた時もあったから。

 だけどそれも今は遠い昔の出来事として心の中に根付いている。ピアノを愛していた自分が今はどこにいるのか分からない。ただ深い心の底に太い根を張って存在していた。



 翌日、万里と学校に登校すると校門前に人だかりができていた。目が眩むようなフラッシュに人々の歓声の声。

「何があったんだろうね。芸能人でもいたっ……け、……」

 万里の声がかすれた。驚きに目を大きくさせているのが分かる。私も覗こうと前にでた瞬間、ぐっと引き寄せられて、万里の手に視界を奪われる。

「え、ちょっ……? 万里」

「ダメ。帰ろう」

「え、何で……?」

「いいから!」

 震えていた。万里の手が、声が、体が。

 私が知らない人の身代わりになったと知った時のように震えている。

「あの、すみません! この学校の生徒さんですよね? 今回受賞された東雲奏さんのことご存知ですか?」

 受賞? 何のことだろう。

 それに東雲って……音楽室でいつもピアノを弾いてるって噂の。

「わからな……」

「少しだけお時間をください! コンクールを優勝した東雲くんのことですが」

 目から手が離れて広がった視界にはたくさんのカメラとマイクを持った人がこちらを見ていた。驚きと同時に嫌な記憶が鮮明によみがえる。

「すみません! 通してください! 帰ろう、紫苑!」

「紫苑って……。それにこの顔……どこかで」

「別人です! 通して! 通して!」

 何がどうなってるのか分からない。万里が必死に私を連れ出そうとしている。見せたくないものから隠そうとしている。けど私はたくさんのフラッシュを浴びた。

「風上加奈子の娘だ! あなたは風上紫苑さんですよね?」

「一年前に音楽界から姿を消したと言われる天才少女の!」

「今回のコンクールに出場なさらなかった理由は何ですか?」

 世間で私はちょっとした有名人だった。音楽界のスターである両親を持つ娘として、賞などをいくつも手にした天才少女としても。

 一年前の出来事を世間には知られていない。知られたいとも思わない。私はもうピアノを弾けないし、音楽に関わる気もない。

「幼いころから出場していたコンクールにエントリーしなかったのはなぜですか? あなたの実力ならば優勝などたやすかったと思われますが」

「確かに。今回受賞された東雲くんの演奏は立派でしたが、紫苑さん程の腕では……」

 一瞬、この人たちが何を言っているのか分からなかった。

 さっきまで彼を誉めていたくせに、私が現れた途端その言いよう。でも彼の音色は自然と心に入ってくるもの。

 それに私には真似できない程の心の入れようがあった。それはピアノに対してなのかは分からないけど、でもすごく想いを詰め込んでいるようにいつも聞こえる。確かに技術は少し劣っているけれど、賞を取るには十分の演奏家だと思う。

「紫苑さんは彼の演奏をどう思いました?」

 その声にはっとした。質問と同時にフラッシュが先ほど以上に集まる。

 私はこの人たちが嫌いだ。

 というか彼が受賞したのは審査員がその想いを受け取ったからに違いない。それを受け取れない人間は文句を言う資格などないはずだ。

「消えてもらえませんか。私はもうピアノを弾かない。両親のことを聞きたいのであれば直接どうぞ」

「なぜ弾かないのですか? 私たちはあなたのことが知りたいのです! 感想をお聞かせください!」

「感想? ああ、東雲奏の。私としては嫌いですよ。彼の演奏」

「やっぱり技術ですか? 音楽家の娘であるあなたの意見はぜひもらいたい! 私どもも彼の演奏はいまいちだと思ってたんです!」

 本当にこの人たちはおかしい。さっきまであんなに褒めていたのに。両親に気にいられたいのだろうか。まあ自分自身、見たことがない人の演奏を嫌いと思うのは最低だと思うけど。

……土足で心に踏み込む音がとても嫌いだ。

ただ自分のことを含めずに一般的に評価するとすれば、また違う言葉が出てくるというもの。

「彼の音色は綺麗です。彼の演奏はミスも多くて聞きづらいですが心を籠める音は素晴らしいと思います。私自身、想いが音に乗って聞いてて心地がいいですから」

 この時の私はこう言った。本当にそう思ったから。

 嘘を並べずに褒めることができたのは、知らない人の演奏だと思ったから。

「そ、そうなんですか。そうですよね! あんな綺麗な音を」

「あなた方は先ほどまで彼を侮辱していた。今さら何を言い出すのですか?」

「別に私たちは!」

「そうですか。それでは失礼いたします」

 呆気にとられた報道陣をよそに私たちは学校へと登校した。走ることができなかったから遅刻してしまったけど。




「先生たちもあの人たちを追い払ってくれてもいいのにね。万里」

「……」

「万里?」

「あ、え……。あ、何?」

 朝から万里はこんな状態だ。お昼時間はいつも嬉しそうにしているのに今日はなぜか静かだ。

「万里、何かあったの? 紫苑、何か知ってる?」

「分かんない。朝からこんな調子で」

「そっか。でも今日は早く帰れるし、遊べば元気になるかもよ」

 いつもなら放課後の話になると乗ってくるのに今日はそんな気配がない。本当に何があったのかなんて分からない。

「ようやく音楽室の王子の顔をご対面だね!」

「だね! コンクールの受賞会でしょう? 学校としても光栄だよね!」

「万里、彼はかっこいいって噂だよ! 楽しみでしょ!」

 男子の話をしても反応なし。これは重症だ。一体何があったんだろう。

「……今、何て言った?」

「え……?」

「王子がどうのこうの」

「あ、ああ。ほら、今日の放課後、東雲奏の受賞会でしょう?」

 それを聞いた瞬間、万里が大きな音をたてながら席を立った。雑にカバンを手にして私の手首をぎゅっと掴む。

「紫苑、今日は帰ろう」

「え、ちょっと待って万里、朝からおかしい……」

「そんで学校も変えよう。こんなところにいさせたくない」

 万里は私の手首を掴むと出入り口へと向かおうとした。だけど万里を友人たちが止める。それと同時に廊下から黄色い声が飛び交った。

 クラスの人たちも輝かしい目を向けている。

 それなのに、私の目は狂ったように揺らいでいた。

「東雲くんよ! キャー! カッコいい!」

「あいつすげえよな! 受賞するなんてよ!」

「あ、うちのクラスに来るよ!」

 持っていたパックジュースが床へと手から滑り落ちた。中身をぶちまけ、足元をよごす。まるで自分自身が事故に遭った時の姿のよう。それだけのことで事故のことが鮮明によみがえってきた。

「しの、のめ……そう……?」

 どうして気づけなかったんだろう。その名前を聞いたときに思い出せばよかった。知っていたら好きになんてなっていない。彼の音色を褒めたりなんかしなかった。

「風上紫苑? ああ、いるよ。ほらあそこに」

「ありがとうございます」

 どうしてここにいるかなんて分からない。どうして私がこの人を守ったなんて分からない。

 どうしよう。

 憎い。

 私から奪ったもので受賞?

 どうして私が持っていないものを彼は持ってるの?

 何で私にはないのに。

「し、紫苑! 知り合いだったの?」

「どうして言ってくれなかったのよ!」

 知り合いだって知ってたらこんなところにいない。どうして気づかなかったのかなんて自分に言いたい。

 その瞬間、ガツンという大きな音が響いた。

 顔をあげると、東雲は机に思いっきり当たったのか倒れ込んでいる。

「ちょっ! 万里! 何やってんのよ!」

「何であんたがここにいんの!」

「やめなって! やばいよ!」

「紫苑に何の用? まさか受賞されたことを褒められたからって許してもらえたとでも?」

 それ以上は言わないでほしい。わたしには止めることはできない。もう手は使えない。足も速く動かせない。だけどここで万里が彼をもう一度殴るのは怖い。

「やめて、万里」

 情けないけど声が震える。東雲が私から全てを奪ったのは確かだけど。彼をかばったのは私の勝手。だから自業自得とでもいえる。

「こいつは紫苑の!」

「私がやめてって言ってるの。そんなことで万里の手は汚させたくない」

 情けないけど、今にもこの人を殺してしまいそうだ。自分のせいでもあるって分かってるけど、でもどうしても憎い。

「あなたたち! 何をやっているの!」

「おい、大丈夫か?」

「誰ですか! 彼は我が校の栄光ですよ!」

 先生たちが押し寄せてきて、私たちを見下ろす。万里が悪いんじゃない。全ては私がわるいんだ。

「私がやりました」

「ちょっ、紫苑!」

「朝のストレスが溜まってしまって。名誉生徒である彼が憎たらしくて」

「あなた、音楽家の風上紫月と加奈子の娘だったわよね。立派な親を持っているのに何てことを!」

 先生は呆れたように私の手首を掴み上げた。

「生徒指導室に来てもらう。退学処分を覚悟なさい!」

「待って……待ってください!」

 聞こえてきた声に振り向くと頬をおさえながら、東雲は立ち上がるのが見えた。先生に支えられてないと今にも倒れてしまいそうなほど、ふらふらしている。

「先輩は何も悪くないんです。僕が悪いんです」

「先輩呼ばわりしないで。二度とあなたの姿を見なくて済むんだもの。退学なんて光栄だわ」

「僕の演奏、何がダメですか? あなたに届きませんか?」

「何言って……」

「お願いします。僕に足りないものを教えてください!」

 何を言っているのか分からなかった。足りないものを教える? その意味が分からない。

 彼の足りないものなんて知るわけがない。現に今日が初めて、まともに話している。謝罪をされるわけでもなければ、万里に殴られたことを先生に言うわけでもない。まるで殴られることくらい覚悟していたかのようだ。

「紫苑に話しかけないで。せっかく笑えるようになったのに、何で今さら!」

「ダメだよ。殴ったら今度こそ万里が処分される。私のせいでおじ様たちにまで迷惑はかけられない」

「どうしてこいつの話をまともに聞くのよ。紫苑はこいつを許してんの?」

「許して何かが変わるなら許すし、許さないで何かが変わるなら一生許さない」

「それはっ……」

「平気だから。もう終わったことだから」

 そう。もう終わったこと。義手で全てが戻るならもうとっくにやってる。だけどやらないのは、完全に戻るという確証はないから。確実に今までのようにピアノが弾けるとは思わない。というより、事故に遭った時に、内臓も大きな損傷をしてしまったから手術中に命を落とす可能性があるという。だからどうしようとも思わない。命を落とすのは可能性だけど、万が一にも万里を残すのが嫌だから。

「僕の中では終わってないんです!」

「君には関係ない」

「ないわけないじゃないですか!」

「ないって言ってるの。先生、早く生徒指導室に行きましょう」

 どうしてそこまで事故のことを思い出させようとするのだろう。もういいって本人が言っているのに、万里といい、東雲といい。そこまで人に怒られたいのか。

「先輩じゃ殴れないでしょう」

「何を言い出すのかと思ったら」

「手に力入らないじゃないですか。僕を殴ったのは先輩じゃないです」

「何を言いたいの?」

「僕が自分でやったんです。先輩にフラれたので、その腹いせに」

 呆れた。この子はアホだ。バカだ。

「ど、どうやったらあんな大事になったというんだ。お前の演奏から何も感じ取れない奴の言うことなど放っておけ。こいつは両親がすごいというだけで何もできない奴だ。お前がかばうような相手じゃない」

「かばってなどいません。先輩に告白したら即フラれてしまって。それで、僕が殴られたふりをしたんです。自分で自分を殴って。だからそんなにはれてないですし」

 確かに思ったよりはれてはいない。あのガツッて音は机にぶつかった時のだったのかもしれない。万里は本気で彼を殴ってない。それだけで心が軽くなった。

 というか先生のあの言いよう。何かムカついた。先生の方が音楽に詳しくないくせによく言う。私が彼の凄さを分からない? 両親がすごいだけ? 確かに今は何もできないけど、一年前までは彼よりもずっと優秀だったと思う。自分で言うのはあれだけど。

 それなのにあの言われ方には黙ってはいられない。

「先生、私の親が誰だかご存じですよね? 先ほどすごいと言ってましたし」

「それが何だ」

「私、彼の演奏は凄いと思いましたよ。人からかっさらって得たものですし」

 そう言うと東雲は体を一度びくつかせた。だけど気にせずに先生に視線を戻す。

「何を言っている。東雲は自分の実力で賞を得たんだ。人からかっさらった? 何をバカなことを言っている」

「確かに彼の演奏は心のこもった弾き方です。だけど音を外すことが多い。技術はそれほど高くはない」

「おまえに何が分かると言うんだ。こいつは十六歳にして優勝したんだぞ。我が校の誇りだ。あんな素晴しい演奏を私は聞いたことがない」

「そうですか。でも別に彼が最年少で賞をとったわけじゃありませんよ。でも一年間であれだけの技術を身に着けたのは凄いと思います」

 褒めるのは嫌だけど。でも、事実だし。先生を黙らせるには仕方がないし。

 隣で東雲は驚いたように目を見開いた。目があうとすぐにそらし、先生を見上げる。

「私は両親のおかげでそれなりに音楽には詳しいんです。その両親のおかげで私は今ここに存在しているし、両親のおかげで大切なものを見つけた。まあそれらは全て壊されましたけど」

 時折、彼を言葉で責め立てては彼を言葉で褒めた。別に責めたままでいいとは思うが、これも罰をくらわないためのこと。

「お前は何を言いたいんだ」

「音楽を侮辱するものが目の前にいると腹が立つ」

「教師に向かって何を言──!」

「名誉などに縛られていると痛い目にあいますよ。実際、今朝の報道陣さんたちも痛い目見たと思いますし」

 思い出しただけで嫌な気分になる。今頃、上司に何を言われているやら。この先生も結局は名誉のために働いている最低な教師。まあそれが当然なのかもしれないけど。

「私を処分なさりたいのならどうぞ。だけど私の退学と同時に、東雲奏も退学しますよ」

 その発言が周りの雰囲気を動かした。東雲自身驚いているよう。その反応が当たり前のような気もする。

「何をかってに言っているんだ!」

「別にかってにじゃありませんよ。彼は私の所有物ですから」

「人をモノ扱いとはいい御身分だな」

「ええ、まあ。それでも退学処分にしますか? 先・生」

 これくらいのことでもしないと退学処分は免れないし、自分の中に根付いているイライラも消えない。彼をペットにするのは我ながらいい案だと思う。

「次、何か問題を起こしたら即退学だ」

 そう言って先生たちは教室から去っていった。呆然としていた周りの人たちもチャイムと同時に慌ただしく動き出す。

「ねえ、ちょっとついてきてくれる?」

「え、あ……はい」

 私は彼を連れて教室を出た。万里もついてくるのかと思ったが、笑顔で見送られてしまう。

「ごめん。少し頭を冷やしたい」

 そう言って私たちとは反対の方向へと歩き出して行った。



 いつも彼が弾いているピアノがある音楽室に入ると東雲が立ち止まった。

「あの……」

「何」

「歩くのが遅くなったのも事故が原因ですよね」

「そんなに遅い?」

「……ええ。僕のせいですみませんでした」

「悪いけど。謝罪は聞き飽きた。一年前に何度も謝罪してくれていたらしいからもういい。それに私がかってに身代わりになったのが悪いんだし」

「そんなことはありません。それにさっきのことも……ごめんなさい」

 謝られて事が変わるなら、いくらでも謝ってほしい。だけど何も変わらないのなら無駄だからやめてほしい。ただ空しいだけだ。

「あなたがピアノを始めたのって事故が原因?」

 これはずっと気になっていたことだった。なぜ彼が急に有名になりだしたのかが分からない。

 東雲は私の目をじっと見つめて深く頷いた。

「はい」

 ただその一言を口にする。その一言にどれだけの想いが詰まっているのかなんてすぐに分かった。音色と一緒で彼は想いをしっかり表すことができるらしい。

「酷い有様だったって万里に聞いた。事故に遭った直後、あなたは私を抱きかかえたのは本当?」

 他人である人の体を、それも事故に遭った直後の酷い体に触れるとなると相当勇気がいるはず。それなのに彼は抱きかかえたと教えられた。

 知っている人ならまだしも、知らない人を抱きかかえるとなると嫌がってしまうのは私だけだろうか。いや、実際そんなものだと思う。

「完全に償える方法なんてないって分かってます。ピアノを弾くことで償うよりも先に苦しめてしまうって分かってます。だけど、これしか思いつかなかった」

 ピアノを通して私に何かを伝えようとしていたから、いつも想いがたくさん込められていて人の心を感動させていた。技術をあげればよりいっそう素晴らしいものが完成するような気がする。だけど償いのためだけで弾かれるのは嫌だ。だからって事故のことを忘れてほしいわけでもないが……。いや、でもピアノをそんなことで弾くのはやめてほしい。

 頭が混乱してしまって整理がつかない。それに正直言って事故のことは憶えていない。大型トラックに衝突したのは分かってる。それ以外何も分からないんだ。勝手に助けて、勝手に事故に遭った。見方を変えると別に東雲が謝罪をする必要などないということになる。だからそのためにピアノを弾かなくてもいいということ。許さないからって体がもとに戻るわけじゃないし、それならいっそのこともう終わりして……。

「あの、一人で百面相しないでもらえますか?」

「は?」

「とっても可愛らしいです」

 そう言って東雲は笑った。初めて見せられる笑顔に心臓がトクン…と音をたてると、悩んでいたことが全て吹っ飛んでしまう。

 これが『王子』と呼ばれる理由なのかな。

「もう事故のことは忘れて」

「急に何を言い出すんですか」

「もういいから。君は君の好きなことしなよ。せっかくの高校生活だよ。楽しまないと損じゃない」

「僕の高校生活はあなたのために尽くすと決めているんです」

 冗談でもなければ、嘘をついているとも思えない真面目な顔に思わず吹き出しそうになった。心を許したつもりはないのに、自然と気が緩んでしまうのはなぜだろう。万里と一緒にいる気分になる。全然性格は似てないのに持ち合わせている雰囲気や根本的なところはそっくりだ。

「それに、僕は先輩の所有物でしょう?」

「だったら所有者の言うことを聞きなさい。事故のことは忘れて」

「だからそれはできません。したくないです。あの時の先輩の姿はしっかりこの目に焼き付けていますので」

 万里が気分を悪くした程の悲惨な姿を抱きかかえ、それを目に焼き付けるってどんな性格をしているんだろう。もしかして東雲って最低な……。

「あんなの気持ち悪いし、正直関わりたくないし、見たくもない姿でしたけど」

「そこまで言うなら触らなきゃよかったでしょ」

「でもあなただったから」

 東雲との接点などなかったはずだ。それなのに彼は私だからという理由で、見たくもない気持ち悪いものをしっかりと記憶し、実際に抱きかかえている。屁理屈のような気がするのは私だけだろうか。ゾンビゲーム好きの万里で気持ち悪くしたとなると相当なものだったはずだが。それに死んで当然の姿だったらしいし。何で生きているのかが不思議なくらいだ。

「私に何を求めてるの? 許しを得たいなら今すぐにあげる」

「許しはいりません。何でもくれますか?」

「何でもって……。何でこっちがあげなきゃいけないの? 普通は君が……」

「あなたが欲しいです」

「私の手はもうピアノが弾けません。どこかの誰かさんのせいで」

「あなたの全てが」

 本気で殺意が芽生えてきた。何、この人。女たらし? それともただの女好き? ああ、それとも私の実力とか、技術とか? そんなのあげられるわけないじゃない。自身は自身で、他者は他者。私とは別の存在でしかないんだから。

「そう言えば先輩、僕に先輩って呼ぶのやめろって言ってましたよね?」

「君が後輩なのは嫌。当然でしょう」

「じゃあ紫苑……」

「後輩に呼び捨てされるのって意外とムカつくんだね」

「……紫苑さんなら」

「どうして名字で呼ばないのかな。普通は名前じゃなくて?」

「先輩も僕の事、奏でいいですよ。ぜひ奏って呼んでくださいね」

 名前を呼ぶ? 全て奪った人に名前を呼ばれて、名前を呼んで。彼とそこまで親しい間柄だった? 絶対に違う。敵だ、敵。

「ねえ紫苑さん、僕にピアノを教えてください」

「え……?」

 ピアノを教えてください……? 何を言って……。償いはもういらないと言ったはずだ。それなのに続ける意味なんてあるのだろうか。それに何で弾けもしない私が教えなければならない。

 もうピアノに関わるのは嫌だ。自分が弾けないのに、弾けなくなった原因である彼に教えるなどプライドが許さない。

「僕は先輩にいい演奏を聞かせたいんです。別に償いとかのためじゃなく、僕自身がそうしたい。コンクールに出たのだって、先輩が聞いてくれると思ったからで」

「自分で弾けもしないのに聞くわけない」

「毎年出てたって聞いて……。でも、今はこんなに近くにいます。だから、あなたのために弾かせてください。毎日上達して、毎日聞かせます。だから」

 本気だ。本気で弾く気になっている。彼に教えてあげるべきだろうか。現実のところ私は弾くことができないし、彼の想いが本気なら教えるのもありだ。短時間であれだけ腕をあげることができる彼はきっと天才肌なのだろう。だけどそれと同時に劣等感がわいてきて、どうしようもない気持ちになる。自分が誰よりも劣っていて、誰よりも落ちぶれている。それを東雲奏に感じなければならないとなると、思いは倍増だ。

「私はあなたが嫌い。だけど……」

 彼のペースに巻き込まれて、彼の頼みを叶えることに酷く苦しめられる。それなのにピアノだけは嫌いになれない。音楽だけは嫌いになれない。

「紫苑さん……」

 その呼び方もイライラする。何で名前を呼ばれないといけない。何で彼に教えないといけない。どうして涙が……止まらない。

「何で私が……どうしてっ……!」

 私のすべてを奪った人に対してどうして教えないといけない。泣かないといけない。何で私は彼の願いを叶えようとしているの。どうして私は彼の為に必死になるの? 

「何で、何でよっ……!」

 そんなの決まってる。答え何て一つしかない。

「ごめんなさい。本当にごめん。だけど、絶対にあなたにこの想いを伝える。だから、お願いします。教えてください」

 自分には叶えられないことを彼は叶えることができるからだ。彼に期待している。彼の想いを受け入れようとしている。自身にはもう二度と叶えられない夢を、彼は叶えることができる。音楽が、ピアノが好きな以上、私は彼を使って音楽に関わりたい。そうでしか関われない自分にイライラする。

「この命をかけて罪を償わせてください」

 その想いをただ単に私は軽く受け取っていた。大げさな言葉だと。だけど、自分の想いと彼の想いはどこかで重なって、それを簡単に見捨てたくないと思った。自業自得だって分かってるし、彼のせいだとも思ってる。だけどそれ以上に音楽が好きで、大好きで、これを捨てることなどできなくて。

「僕はあなたの所有物です。あなたにしか教わりたくない。あなただから全てを捧げれるんです」

 正直まだこの意味は理解できない。私たちに接点はない。事故以前に会っていた記憶がないし、この一年間会うことはなかったから。だからどうしてそこまで言えるのかが分からない。まあただの言葉ととれば済む話ではあるけど。

「ただで教えてもらおうなんて考えてません。だから僕にできることなら何でもします。できることなら何でも」

 本当にこの子は真面目だ。そういうところは嫌いじゃない。

「じゃあ家に来て」

「え、それって」

 何を勘違いしてるんだか。頬を染める彼に私は即刻に言葉を付け加えた。

「家でピアノを弾いて。万里が家に住んでいて、身の回りをやってもらってるんだけど一人じゃ大変でしょう」

「あの人と一緒に住んでるんですか」

「あの人って……」

「あの人はあの人です。紫苑さんに殴られる覚悟をしていたって言うのに、あんな奴に殴られたって思うと反撃したくてたまりません」

 万里を悪く言うなんて性格が悪い。というか二人に接点何てあっただろうか。事故の時が初めてだと思うけど……。

 ここまで敵意を持ってるとなると以前から知り合いだったような雰囲気だ。だけど万里はそれを言わないってことは知り合いじゃないのかな。

「僕が先輩の全てをお世話します。だから僕と二人で」

「それはまずないから。料理とかしてくれると嬉しい。できる?」

「できますよ。あれよりも上手に作れます」

「万里を嫌う理由が分からないんだけど」

「何であんな奴が好きなのかが分からないんですが」

 万里の話になった途端、彼は怖い表情をして、声も低くなった。冷めきった目に背中がぞくりとする。やっぱり知り合いだったと判断するのが正しいような気がする。

「紫苑さんの家に住んでいいってことですか?」

「いいよ。部屋は余ってるし、無駄に広いから。ピアノもあるから練習はそこでできるよ。それと万里とは仲良くしてね」

「ありがとうございます。ですが、あいつとは仲良くなんてできません」

「そこが一番重要なんだけど。あ、でも男子が一人で住むっていうのは嫌?」

「僕はかまいませんけど。あなたと二人なら尚更」

「本気で何を勘違いしているのか分からないんだけど。私は君にピアノを教えるけど、一年前のことを忘れたわけじゃないから」

 忘れたいけど忘れられるわけがない。大切なものをなくしたんだ。幼いころからの夢をあの一瞬で無くしてしまった。それを彼が得ていると思うと今すぐに殺したい。だけど彼に守れと言われて守ったわけじゃないし、彼が自ら飛び出したわけでもない。なら、全てを彼のせいで片付けてしまうのには気が引けた。

「放課後になったら迎えに行きますね」

「来なくていい」

「行きます。僕はあなたの隣にいないといけない存在なんですから」

 それが当然とでもいうように東雲は私の目の前でひざまずいた。そして手を握るそっと唇を寄せる。

 ドキッと一度心臓が脈をうったが、すぐにその手を振り払った。

「本当に自分の立場分かってる? 私は簡単に君を許さない。そう言ったよね?」

「許されなくたってかまいません。だけど僕は一番欲しいものを奪い返す」

 何度も言うようだが全く分からない。

 なぜ彼はそこまで私に固執するのか。なぜ万里に敵意を向けるのか。

 私は彼のせいで全てを失った。大切なものを無くした。それなのに何で彼は爽やかな顔で私の前に現れ、親しく関わってくるのか。

 家に住めと言っている時点でそこそこ心を許していると自分でも分かっていた。でも許す理由が分からない。東雲奏のせいで全てを失った。それなのに何で……。


         ***


 本気で来るとは思っていなかった。

 下校のチャイムが鳴るのと同時に教室に東雲奏が現れたのだ。一年の教室から二年の教室まで距離はあるはずなのに、それと同時に来るとは思わなかった。

「紫苑、どういうこと? 何であいつが」

「料理をしてもらうことにした。その代わりにピアノを教える」

「は? 何それ! 家事なら私が!」

「だからだよ。彼に料理を作ってもらうぶん、万里に時間が空くでしょう。万里も休憩できるし、私といる時間が増えるじゃない」

「それは……。てことはあいつも家に住むの?」

「聞いたところ一人暮らしらしいし。別に部屋は余ってるし問題ないよね?」

 あの後、私は東雲に家族のことを聞いた。勝手に泊まったりすると家族が心配するし、厄介ごとになったりする。でも東雲に家族がいないと言われ、それ以上は聞くのをやめた。もしかしたら孤児かもしないし、ただの一人暮らしかもしれない。だから深く追及はしないことにした。

 東雲が万里に気づくとお互いに睨みあい、殺気をあらわにする。

 やっぱり知り合いだったのだろうか。

 なんて今の二人に聞けるはずもなく、私は二人の間に入って制することにした。クラスメイトからの視線が痛いし、お昼時間のこともあるから、ひそひそと言う話し声が聞こえてくる。

「何であんたがいるの。帰りなよ」

「お前こそ帰ったら? 家で家族が待ってますよ」

「父さんたちにも頼まれてるのよ。あんたのせいで生活ができなくなった紫苑のお世話をしてあげてって」

「僕のせいなら僕がやります。だから早く消えてください」

「誰があんたなんかに! あんたが消えなよ。一人ぼっちの寂しい家にお帰りなさい」

 間に入っても意味がないこの状況。二人の関係が分からないからどう言っていいのかも分からないし、それに二人ともお互いのことが詳しい。だったらこのまま放っておいても……なんて思ってしまう。だけどそれだと一向に帰れないし、クラスメイトにも迷惑がかかる。

 そっと万里の口のやんわりと手で塞ぐと東雲に向き直った。

「万里と仲良くしてって言ったよね」

「それはできないと言いました。こんな奴が目に入るだけでイライラする」

「それはこっちのセリフよ! 何であんたなんかが紫苑の視界に入ってんのよ!」

 この言い争いが自分自身が原因だと思うと頭が重くなる。それに万里がこんなに感情的になるなんて珍しい。いつも笑顔絶やさないのに東雲の前だと感情が高ぶってしまうのだろうか。

「万里、帰ろう。君も、ね?」

 そう言うと二人は落ち着きを取り戻したようにお互いに顔をそむけた。

 万里は鞄を手に持つと私の手を引いて歩き出す。その後を東雲はついてきた。


            ***


「入らないの?」

 東雲はなぜか玄関に入った直後に止まった。万里はそそくさと中に入っていく。

「えっと……。この家に一人で暮らしているんですか?」

「今は万里も一緒。今日から君もなんでしょう」

「実家に戻ってきた気分なんですけど」

「実家?」

「え、ええ。あれ、遊びに来てたじゃないですか」

「あるわけないじゃない。君の家になんか一生入る気ないわ」

 本当に何を言いたいのかわかんなくなってきた。それに万里の様子もおかしいし、帰ってくるのに疲れたのって初めてかもしれない。

「このまま家に来ちゃったけどよかったの? 荷物とか取りに行ってきた方がいいんじゃない?」

「そうですね。行ってきます。戻ってきたら教えていただけますか?」

「分かったから。でもちゃんと食事作ってね」

「はい。それじゃあ、行ってきます」

 東雲が出て行ってドアが閉まると私も家の中へと踏み入れた。


 リビングに入ると天窓から夕陽の光が入って白いピアノが反射してキラキラと輝いていた。そこでピアノを弾く母の姿が目に浮かぶ。白くて綺麗な指先が奏でる音は心に染みわたり、いつのまにかその音色の虜になってしまっていた。

「さっき留守電確認したら、今日帰国したらしいよ」

「ふうん。……えっ?」

「だから、今日帰国したんだって。あいつのことどうやって説明する気? 追い出しちゃった方がいいよ」

 万里は電話に手をかけるとメッセージをスピーカーにして再生した。

『紫苑、予定より早く帰国したの。今日の夕食は一緒に食べましょう。もちろん万里ともね。六時ころにはそっちに行けると思うの。それじゃあまたね』

 母の綺麗な声音が落ち着きを与えてくれる。

 六時まであと約三十分。東雲とばったり鉢合せをしてしまうかもしれない。だけどこの後は東雲との約束がある。母の誘いは断るしかないだろう。

「まさかあいつを優先させる気じゃないでしょうね」

「あっちが先だよ。お母様には謝る。最初に約束したのは東雲奏の方だから」

「忘れてないよね? あいつは紫苑の全てを!」

「私が勝手に助けたの。それをあの人だけのせいにはできない。殺したいくらい恨んでるし、憎んでるけど、でもあれだけ綺麗な音を出せる人を悪い人で済ませるのは嫌だ」

 本当に殺したいくらい憎んでる。だけど私に届けたいというあの音は本物だと思う。勝手な思い込みかもしれないけど、どこか母に似ている音を出す。

 私の好きな音を奏でる東雲を恨んで終わることはしたくない。殴られる覚悟をして私の目の前に現れた。命をかけて弾くと訴えてきた。そんな彼に目を向けないで終わるのはどうしてもしたくなかったんだ。

「万里こそ、どうして東雲奏をそこまで嫌うの? 彼もだったけど、二人とも知り合いなの?」

「何言ってんの。それ本気で言ってる?」

「本気でって……。だって彼は事故の時にしか会ったことないじゃない」

 そう言うと万里は瞳を大きく見開いてそれ以上は何も言ってこなくなった。信じられないものを見たようなそんな目をしている。

 長いともいえる沈黙を破ったのは気を取り戻した万里だった。不思議そうに万里は尋ねる。

「じゃあ何であいつを助けたの?」

「……知らない。身体に勝手が動いてて」

「他人を助けたって言うの?」

「そういうことになると思うけど」

 万里まで何を言い出すのだろう。彼と同じように不思議なことを口にする。まるで以前からの知り合いだったような物言いをするんだ。

「あいつが何で車の前に出たかはわかるよね」

「人にぶつかって飛び出ちゃったんでしょう?」

「そんなことで飛び出るわけがないでしょう。本当に憶えてないの? 東雲奏だよ? 本当に?」

 本当に分からない。それからすぐに意識を飛ばしてしまったからその後のことは憶えていない。だけどそれ以前の事なら何となく憶えてる。

 人にぶつかるだけで飛び出ないって言うのはおかしい。だって横断歩道のない住宅街の道路で事故に遭ったはずなんだから。

 それにこの話を続けるのは精神的に悪い。自分が制服のままだったことを思い出し、万里を誘った。

「万里、着替え手伝ってくれる?」

「……うん」


             ***


 万里と紅茶を飲んでると勢いよく玄関のドアが開いた。そしてこちらに向かって廊下を走る足音が聞こえてくる。

「紫苑! 会いたかったよ~!」

 椅子から立ち上がるとぎゅーっと力いっぱいにお父様に抱きしめられた。

「お父様、お母様、お帰りなさい」

「ただいま、紫苑。あなた、紫苑から離れてくれないかしら」

「我が愛娘に会えた喜びをこんなことでは」

「あなた」

「我が妻は厳しいな……」

 お父様は静かに私から離れるとお母様と一緒に並んで満面の笑みを浮かべた。

「また一段と綺麗になったわね。紫苑。恋でもしたかしら?」

「してません。お母様にはかないませんよ」

「あら、ありがとう。万里、紫苑の事ありがとう」

「いえ、好きでやっていることですから」

「そう言ってくれると嬉しいわ」

 お母様は私の頭に手を添えてそっとほほ笑んだ。だけどそれを見ていたお父様が唇を尖らせる。面白くなさそうにそっぽを向いてしまった。

「俺よりも紫苑を優先するなんてカナは酷い。俺の事が嫌いなのか」

「別にそんなことないわよ。でもまあ、紫苑のほうが大切かな」

 地雷を踏んでしまった。お父様は石のように固まってピクリとも動かない。お母様はそれを面白そうに笑った。

「紫苑のことは大切よ。万里と紫苑は娘みたいなもの。だけどあなたは好きよ。紫苑よりも好き」

 わたしから手を放し、お父様の頬に触れるお母様はいたずらっ子のように笑っている。

ちょっとだけお母様は意地悪なところがある。いつもお父様で遊んでいるようなそんな気がする。

「さあ食事に行きましょう。何がいいかしら?」

「もうレストランは予約しているよ。勿論、カナも紫苑も万里も喜ぶところをね」

「さすがだわ。紫苑、万里準備をして行きましょう」

 人の用事も聞かないで予約をするとはどれだけ楽しみにしていたんだか。でも私は断らないといけない。東雲との用事があるから。

「ごめんなさい。私、この後予定が入っていて」

 そう言うとお父様もお母様も口を閉ざしてしまった。そして確かめるようにお父様が聞いてくる。

「今のは空耳だよね。そうだ、きっと空耳だ!」

「予定が入ってるんです」

「うっ……。な、何の用事だい? 家族との食事よりも大切な事かい?」

「どっちも大切です。けど最初に約束したのはお父様たちとではないので」

「キャンセルはできないのかい?」

「できません」

 本当に今度こそ静まり返った。

万里からの視線を感じて振り向くと首を振って合図を送ってくる。彼との約束を断れと目で訴えかけてくる。だけどそれはできない。約束は約束だ。

「紫苑、私たちとの約束とあなた自身の予定とどっちが大切か分かってるの? 私たち、あなたに会いたくて早く帰ってきたのよ」

「会ったからいいじゃないですか」

「そうじゃなくてね」

 お母様は切なそうに目を細めてこちらを見つめてくる。だけど私は首を振り断る。そんな目で見られても、何を言われても、私は断ることはできない。

「僕のことは気にしないで行ってきていいですよ」

 聞こえてきた声にみんなの体がびくつく。視線を上げると東雲が笑みを浮かべながらこちらを見ていた。

「君は……。なぜ家にいるんだい?」

「私が呼んだんです」

「紫苑が?」

「はい。最初に約束をしたのは彼が先です。お父様たちとはいけません」

 お父様もお母様も驚いたような顔をして交互に私たちを見ている。その視線は万里のように険悪なものではなくて、心配そうな眼差し。

「紫苑、奏と一緒にいることができるのかい?」

「……はい。大丈夫です」

 本当は少しだけ心配。彼と一緒にいることで精神が不安定になってしまうかもしれない。だけど彼の音色は私の心に染み込んでくる。それは癒しで、心を騒がせるのと同時に落ち着かせてくれた。

 お母様は彼の頬に手を添えると優しい声音で尋ねる。

「奏、本当に大丈夫? 紫苑に恨まれているのよ」

「はい。僕が頼んだんです。恨まれても仕方がないですし、僕のしたことは一生償わないといけません」

 お父様もお母様も彼のことを『奏』と呼んでいる。名字で呼ぼうとしないのはなぜだろう。それに初めて会った子どもとか、そこまで親しくない人には君付けすると思うのだけれど。そもそもなんで彼の名前を知っているんだ…? 事故のことを今まで覚えていたってことかな。

 いや、もしかしたら彼は本気でピアノが好きで、両親と会うために私に接触をはかったのかもしれない。謝罪だって演技で、全てが嘘で……。

「……お母様に教えてもらえばいいじゃない。」

「紫苑さん?」

 何でこんなにイライラしているのかが分からない。何でこんなに心を許していたかが分からない。全ては彼のせいで奪われたっていうのに、どうして。

「奏、いつから紫苑のことさん付けで呼ぶようになったの?」

 お母様の声に反射的に疑問を持った。顔を上げると不思議そうに首をかしげるお父様とお母様がいる。

「何、言ってるの……? 何でこの人に呼び捨てされないといけないの?」

「何ではこっちのセリフよ。奏のこと他人のような物言いをして」

「え……? 他人ですよ……?」

 彼が他人じゃない? 私が間違ってるの? でも私は見ず知らずの人を助けて事故に遭って……。

「すみません。紫苑さん、早くピアノ弾きたいです」

 話に割り込んできた彼に私は曖昧に頷いた。

 もし彼が知り合いなら、彼と万里の言動にも納得ができる。両親の呼び捨てにも納得がいく。だけど私は知らない。

「ね、え……。君って他人だよね……?」

 そう問いかけると彼はこちらをじっと見つめてほほ笑んだ。どこか悲しげな笑顔に、心の奥が軋むような感覚に襲われる。

 もし知り合いだったら……?

 そんな不安が頭をよぎった。だけど接点が何だか分からない。コンクールに出場していた身なら、もっと綺麗に弾けているはずだからピアノ関連だとは思えない。

 じゃあどこでどうやって知り合ったのだろう。でも確かに他人を助けた気がする。人にぶつかって車の前に飛び出てしまった知らない人を助けたんだ。

「ピアノよりレストランに行こう。あんたも帰ってきてから教わればいいじゃん。ね、紫苑」

「……うん」

「そうだね。レストラン行きましょう」

「僕もいいんですか?」

「ああ。みんなで行こう!」

 不安な気持ちをかかえたまま、万里に手を引かれて家を出た。

 もし知り合いだったら……?

 そんな不安が消え失せない。どんなに記憶を辿っても彼は知らない人でしかない。万里も知っていたら、結構親しい関係だったような気がする。

 ──分からない。

 どんなに考えても、記憶を辿っても、東雲奏という人物は知らない。






 その夜、夢を見た。

 誰かが幼い私に向かって叫んでいる。その子は泣いていて、苦しそうに私に向かって手を伸ばしていた。だけど私は首を振って拒んでいた。

『嫌だ……っ。死んじゃうのは嫌』

 自身も涙を流し、その子に何度も同じ言葉を訴えている。

『僕は……僕は紫苑と一緒にいれなくなる方が嫌だ! 僕は紫苑とずっと、ずっと一緒にいたい!』

『そんなかって言わないでよ。紫苑だって、私だってあんたといたいのよ。でもあんたは治療をするって行くって決めたんでしょ!』

『僕が決めたんじゃない! 勝手に決められたんだ! 姉さんは何で紫苑のそばにいられるのに、僕だけ離れなくちゃいけないんだよ! 姉さんばっかりずるい! 紫苑と遊べてずるい!』

 その子は泣きじゃくって必死に私へと手を伸ばし続ける。だけどその手を幼い万里は引き離した。その子はベッドの上から落ちて、それと同時に点滴台を倒す。腕から引き抜かれた針が、その子の腕を引き裂き血をあふれさせた。

『あんた、何してんのよ! 早くセンセ呼ばないと! 早く!』

『姉さん、行かないで! 紫苑まで行かないでよお!』

 どくどくとあふれ出させるそれに万里は怖気づいて部屋から走っていなくなってしまった。それを怖がらない人なんていない。それが子どもなら尚更……。

傷口が広がってそれは止まらずに流れている。それを見ているだけで気持ち悪さが押し寄せてくるんだ。だけど私は逃げなかった。泣いてるくせに、震えてるくせに逃げることはしなかった。

『ぃ、行か、ないっ……。だか、ら、ちゃんと、手術、受けて……お願い…っ!』

 怪我した時の応急処置の仕方を憶えていたのか、自分のハンカチでその子の傷口をおさえていた。真っ白なハンカチはいつの間にか、真っ赤に染まり自分の小さな手も汚していく。

『紫苑、汚れるからやめ、やめて! ……それに震えて、る。怖いのに……どうして?』

 その問いに私は聞いたことのある言葉を口にしていた。彼と同じ言葉を口にしていた。

『君、だから。×××だから、触るの。どん、なに気持ちが悪くても……どんなに汚くても、×××、だからだよ。』

 今まで光に反射して見えなかった顔がようやく視界いっぱいに映し出された。


           ***


 目が覚めると日が高く昇っていた。

妙に体が重くて横を向くと寝息が聞こえてきた。ベッドに顔を突っ伏して眠っている東雲奏がいる。

 あの夢は何だったんだろう。

 いや、あれは夢じゃない。私が出てきている以上過去の記憶だ。それにあのことは微妙に憶えている。

 そっとさらさらな彼の髪を撫でながら、私は記憶の言葉を静かに呟いた。

「君だから……ね」

「そうですよ。紫苑さん」

「え……」

 返事が聞こえて手を放すと彼がこちらをじっと見て悲しそうに笑った。そしてこちらに手を伸ばして額に触れる。その手はひんやりとしていて気持ちがいい。

「まだ熱いですね」

「何が……」

「何がって。熱出したんですよ。レストランの帰りに倒れちゃって」

「そう、だったっ、け」

「そうですよ。無理なんかするから」

 起き上がろうと努力するけど、今の自分の体は一人じゃ何もできない身体。東雲奏に目を向けると彼は笑って私の背中に腕をまわした。身体に力が入らないため一人じゃ座ることもできずに、彼に寄り掛かる形になってしまう。

「僕の事思い出してくれて嬉しい。忘れられてるって気づいたときはショックで倒れそうだった」

「何……言ってんの。君は他人だよ」

「思い出したんじゃなかったの?」

「じゃないと事故に遭った時のことがごちゃごちゃになる」

「じゃあそこが間違ってるんじゃないんですか。あなたは本当、残酷ですよ」

「君が車道に飛び出さなきゃよかったのよ。そうすれば助けることなんてなかったのに」

 瞼を閉じて彼の心音に耳をかたむけると規則正しい音が響いてきた。

安心感が胸いっぱいに広がって「いつまでもこうしていたい」という思いが口から素直にこぼれてしまう。

だけど今の私にはそれを気にする余裕すらなく静かに眠りに落ちてしまった。


            ***


紫苑が眠って、奏はその寝顔をじっと見つめた。ギュッと抱きしめて優しくささやく。

「紫苑、そんなこと言っていいと思ってるの?」

 その問いかけは紫苑には届かない。それでも奏は話しかけた。

「僕が紫苑を望んじゃいけないって分かってる。だけど僕は紫苑が欲しいんだ。僕を助けなかったら、紫苑は笑っていられたのに。僕の名前を呼んで笑ってくれたのに。僕を好きでいてくれたのに」

 何度も同じ言葉を呟いては空気に混ざって消えていく。そして静かに奏の頬に涙が流れた。

「ピアノを弾けない身体にして、ごめん。ごめんね、紫苑」


       ***


 気がつくと日は沈み、月明かりが部屋を照らしていた。目が覚めたときのような体の重さはなく体の火照りもなくなっていた。

 リビングから聞こえる笑い声につられるように自然とドアの向こうへと歩き出す。私がドアを開けられないためか、ドアは開かれっぱなしでその気遣いが嬉しかった。

家の間取りが三階から一階まで吹き抜けになっているため、下をのぞけばリビングの様子が見える。音で気がついたのか、万里がこちらに向かって問いかけてきた。

「紫苑、起きて大丈夫なの?」

 その声に私は階段を降りながら「うん」と頷く。すると安心したように万里が息をつくのが見えた。

「これも奏の看病のおかげね」

「そうだな。だが俺は奏の愛の力だと思ってるよ。紫苑への想いが回復へと導いたんだ」

 お父様とお母様は顔を見合わせほほ笑みあう。

 万里と奏の間の空いている椅子に座ると奏に視線を向けた。

「ありがとう。でも何で万里じゃなくて君なの?」

 そう問いかけると万里が盛大にため息をついた。ビクッと奏は体を震わせ動揺の表情を見せる。

「『看病させてくれないなら死んじゃうよ~』って言われたから仕方なく譲ったの」

「そんなことで譲るなんて珍しいね。万里って奏がどうなっても気にしないような性格だったような気がするけど」

「本気で死なれると困るからよ」

「冗談だと思うけど……。彼が死んだら約束守れないじゃない」

 私のためにピアノを弾くという約束。それはものすごく楽しみだった。彼の音はお母様の音に似ている。そのせいか彼の音がそれなりに好きだった。

「何で紫苑の服変わってんの? あんたが着せたんだよね?」

「さあ。僕には何のことだか」

 ん?

 ちょっと待った。今自分でも気づいたけど、確かにあの時と着ていたのと違う気がする。あれ、いやでも……。意識が朦朧としてたし、変わってないかも。

「それ、本当?」

「我が愛娘の裸を見るなんて何を考えてるんだ! 見るのは俺が先」

「あなた」

「……すみません。カナ」

 お母様は奏をじっと見つめて答えを待った。否定をするのかと思ったが、奏はあっさりと頷いた。

「僕が着替えさせました。何か問題でも?」

「いいえ、問題はないわ」

「えっ! ないの?」

「ないわよ。紫苑は着替えができないんだから、奏に着替えさせられても問題はないわ」

「ですよね。加奈子さん」

「ええ。奏」

 なぜか二人は真面目な表情で頷き合う。それを見た万里が隣で体を震わせていた。本当のことを言われたので私は言い返せないが、きっと万里が口にしてくれるという期待を持って視線を向ける。

「あの! すみませんが、男の人が女の人の体を簡単に見ていいものではないと思うんですよね!」

 テーブルに手をつきながら立ち上がった万里は訴えるように告げる。だけどお母様はキョトンとした顔で小首を傾げた。

「なぜ?」

「なぜって……。か、加奈子さんは紫月さんに体を見られても平気なんですか?」

「平気よ。そのための夫婦じゃない」

「……。もういいです」

 諦めたのか、万里はため息をつきながら椅子に座りなおした。そして目で「ごめん」と伝えてくる。

 でも納得したこともある。汗を拭いてくれていたおかげか、起きた時にべたつきかんがなかった。それには感謝したいし、看病してくれたことに対して批判はない。

「看病してくれてありがとう」

「いえ。好きでやったことですから。それにあいつと二人きりにはさせたくないです」

「だから万里と仲良くしてってば」

「できるわけないじゃないですか。昔から犬猿の仲なんですから」

 奏はため息交じりに呟いた。やっぱり二人は知り合いなんだと『昔から』という言葉に息をつく。

 別に彼のことを完全に思い出したわけじゃない。たまたま夢に出てきた創られた過去ってこともある。実際は他人で、関係がない人かもしれない。だけどお父様たちの対応を見てそれは消えかかっていた。私と奏は知り合いで、万里と奏にも関係がある。夢の中の奏は、万里のことを「姉さん」と言っていた。だけど実際はどうなのか分からない。今は「姉さん」なんて呼ばない。あいつとか、お前とか、名前を呼ぶことすらしないんだ。

 もし知り合いだったら事故のことが白紙に戻る。どうやって事故に遭ったかを一から思い出さないといけない。

「紫苑、そろそろ眠った方がいいわよ。また熱を上げてしまうかもしれないわ」

「……うん。そうします」

「僕が一緒に添い寝をしてあげましょうか?」

「……うん」

「分かりました」

「ちょっと待った! 紫苑、適当に返事してない?」

「……ぅん……」

 フラッと視界が眩み、目の前が真っ黒に染められた。



 紫苑が傾きかけたのを奏はそっと支える。服越しの体に触れただけで体温が伝わってきた。

「まだ熱あったんだ……」

「え? 嘘……」

 万里は紫苑の額に手をあてた。手のひらから伝わる体温に驚き、万里はキッチンへと走る。紫苑の体を奏は抱えて加奈子と紫月に挨拶をした。

「また熱が上がってきてしまったようなので、部屋で寝かせます」

「ええ、よろしくね。こんなに熱を上げるなんて珍しいわね……」

「そうだね。昔は君と違って体は強い方だったのに」

 氷枕を抱えて戻ってきた万里が悲しそうな声音で三人に告げた。

「紫苑はここ一年で何度も熱を上げています。多分事故に遭った時に体が弱ってしまったんだと思うんです」

「免疫がなくなったってことね。それは仕方がないことよ」

「だけど……。尋常じゃないくらい体調を崩すんです。ストレスなどが原因の時が多いと思うんですけど」

「それも仕方ないわ。大きなものをなくすってこういうことだもの」

 加奈子は紅茶をすすりながら万里に淡々と返す。

 その元凶である奏を万里は睨みつけた。いくら弟と言えど、大切な友人をこんな姿にさせたのは許せないから。昔から因縁があるが今ではそれが一層深くなっている。

「あんたがあんなことしなきゃよかったのよ。よくものこのこと紫苑の前に現れたわね」

「別に嫌われて当然だと思ってましたよ。嫌われていることを覚悟で行ったら、記憶から抜けていたのでさすがに自分の行いに腹が立ちましたけど」

「自業自得よ。紫苑の看病は私がする。あんたはさっさと自分の部屋に行きなよ」

「お前こそ行ったら? 紫苑は僕が看病する。お前なんかに任せられない」

「それはこっちのセリフよ! 紫苑だって私のほうがいいに決まってる。あんたなんかよりずっと!」

 その二人の言い合いを見ていた加奈子と紫月はため息をついて顔を見合わせた。ただ姉弟喧嘩をみているのはいいが、その間に自分の娘がいるとなると話は別だ。しかも熱で苦しんでいる娘を挟んでケンカをされては黙ってられない。

「あの、お二人さん。 そろそろ紫苑を寝かせてもらえないかしら?」

「そうだね。紫苑がかわいそうだ。万里も奏もケンカはよしたほうがいい」

 二人の注意に万里と奏は言い争いをやめた。

「おやすみなさい。加奈子さん、紫月さん」

 声をそろえておやすみの挨拶をすると二人で同じ部屋へと向かっていった。

 その姿を見て加奈子は笑みをこぼす。

「さすが双子ね」

「うんうん。実に愛らしい」

 加奈子と紫月は笑いあったあと、それぞれの仕事へと向かってく。紫月はコンサートの準備を、加奈子はコンサートへ向けての練習を始めた。


            ***


 東雲奏と一緒に暮らし始めて早三週間が過ぎた。

体調も回復して、すっかり元気になった紫苑は家に帰ってきて、奏が奏でるピアノの音に耳をかたむけていた。万里と他愛のない話をしながら、奏の演奏に指摘をいれる。

「おばさんたち、今日戻らないって」

「分かった。コンサート近いから仕方ないよね」

 そこでふと疑問がわいた。万里と奏はお母様のことを「おばさん」と呼ぶ。だが本人の前になると「加奈子さん」になるんだ。その意味が分からない。

「ねえ万里。どうしてお母様のこと今と同じようにおばさんって呼ばないの?」

 そう問いかけると、万里がジュースを吹き出すのと同時にピアノがジャーンと音がなった。

「え、ちょっ……二人とも?」

 咳き込む万里と、続きが分からなくなった奏。何が二人をこうさせたのかが分からない。

 万里はコップをテーブルに置くと真剣な表情でこちらに向き直ってきた。

「あのね、紫苑」

「うん……?」

「おば、加奈子さんに言われたの」

「何を?」

「『私はおばさんじゃないわ。』って」

「うん」

「間違っておばさんって呼んじゃった時に、加奈子さんどうしたと思う?」

 万里の真面目な表情に不似合いな柔らかなメロディーが流れ出す。だけど音がガタガタで指先が震えているのが分かった。

「さ、さあ? お母様、何したの?」

 答えが分からずに聞き返すと、万里は怯えた表情で小さくつぶやいた。

「死ねって親指を逆さにしてきたのよ……」

「え」

「それだけじゃない! どこから出したのか、わら人形を釘で打ち付けようとしたの…!」

「う、うそ……」

「マジです……。だから加奈子さんって呼ぶようにしてるんだよね」

 そんな話初めて聞いた……。

 普段のお母様から想像はつかなくもないが、それがお父様以外にも向けられていたとは初耳。気品高いお母様は見た目は大人しい印象を周りに与えている。だが実際にはドがつくほどのサディスト。みんな見た目に騙されてしまうが、ピアノの演奏は完璧で性格など関係なかった。

「お母様って謎……」

「だよね。紫苑がその娘っていうのは納得できる」

「それってどういう意味?」

「性格じゃなくて見た目だよ」

 万里は両手で額縁のようなものを作って私に向かってその穴をのぞく。そしてニヤッと笑って見せた。

「綺麗に伸ばされたストレートロングの髪に、白い肌に、細い指先。長いまつ毛に大きな目。容姿のほとんどが加奈子さん譲りでしょ?」

「そうなの、かな?」

「そうだよ。綺麗で誰もが見惚れるの」

 誰もが見惚れる。

 その言葉はお母様が一番似合う。私がそこまでお母様に似ているとは思わない。どれだけ比べてもお母様のような美しさには到底及ばない。

 ふと耳に流れてくる旋律に心が揺れた。ピアノの方に振り向くと、これ以上にない優しい表情で音を奏でる彼がいた。

 柔らかいメロディーに優しい表情、繊細な指使いに心が惹かれる。柔らかく、優しいメロディーを奏でる彼の演奏は、人が変わったかのように自然と心に流れ込んできた。

「ペダルを踏み続けて音を繋げて」

「え、はい!」

「スピードを遅らせていいから、そのまま全部の音を繋げて終えて」

「えっ……遅らせ…」

 そのまま音を止めてしまったその音色たちは綺麗に響き渡った。その音に驚いているのか、奏は鍵盤から指を離せずに目を瞬かせている。

「そのまま次の音、弾ける?」

「でもこのまま繋げたら……」

「まずいいからやって…って音消えちゃった」

 響き渡っていた音は静かに終わりを告げ、天に向かって光に溶け込んでいく。耳に心地よく残る音に自然と心は軽くなる。

「言われたとおりに弾けなくてごめんなさい」

「謝ることじゃないよ。さっきの音、聞いたでしょう? どう思った?」

 問いかけると奏は音を思い出すように目を閉じた。そして弾いていた時と同じような表情を見せる。

「あの音は君が出したんだよ。他の誰でもない君の音」

「僕の……音。僕が出した音」

 奏は嬉しそうに頬を染め、私に向かって笑いかけた。

「紫苑、どうだった? 僕の音、心に届いた?」

 そんな無邪気な表情に罪悪感がうまれた。どうして自分が罪悪感に溺れないといけないのだろう。そんな答えなんてすぐに分かった。

 償いの為に弾くピアノ。

 そのための音を私は心に受け止めてしまった。今の曲は償いの為に弾いていい曲じゃない。償いなんかよりも別の想いが欲しい。

「奏から見た私って……何」

 体が不自由になった。それは東雲奏のせいであり、自分のせい。だけど事故当時の記憶もあいまいになっているのに最近気づいた。彼とは知り合いで、だから知らない人を助けたっていうのはおかしいことになる。

「どうやって車道に飛び出したの? 何で私がかばったの?」

 もう頭の中ごちゃごちゃ。意味が分からない。人にぶつかっただけで飛び出るはずがないっていうなら、どうやったら車の前に飛び出るのだろう。奏のせいで生死を彷徨い、大切なものを失って。

「紫苑さんは僕の憧れです。光のような紫苑さんが僕には眩しすぎて、綺麗すぎて。それが憎たらしい」

 それは初めて聞いた彼の本音だった。私は彼に憎まれている。憎んでいるくせに私に固執する。私が幼い頃に彼に言った言葉を、彼は繰り返し私に言ったという。どんなに汚くても、気持ちが悪くても、目を逸らさずに包み込んだ。

 それなのに憎いという言葉を口にした。どんな思いで口にしたかなんて分からない。奏と万里の関係もはっきりと理解できない。

「僕だって聞きたい。どうして僕を助けたのか知りたい。僕を拒絶したくせに僕をかばうなんて残酷すぎるだろ」

 怖い表情で、据わった目のままで、奏は私を睨みつけるように見つめる。万里は珍しく何も言わずにこちらに視線を向けていた。

 私が彼を拒絶して、私が彼からして残酷で……。

 何を言われているのかが分からない。ここで話を打ち切るのもありだけど、だけど今回を逃してしまったら、後はもうこんな機会はないような気がした。

 奏を見上げると震える唇をそっと開く。

「どうして奏は私なの。別に……私じゃなくてもいいじゃない……っ」

 とっさに口を塞いだ。目の前で奏が大きく目を見開いている。そう思うようになってしまった自分に涙があふれる。

 伸びてくる指先が目じりを拭い、背中から腕が回される。気づいたときには奏の腕の中にいて、なぜか心から安心できた。

「思い、出して……」

 奏のか細い声が聞こえた。

「紫苑……」

 彼に名前を呼ばれるのは嫌いじゃない。特に好きってことでもないけど、音色と同じで嫌いってわけじゃなかった。彼の声音も、彼の音色も、彼の心音でさえ耳から体に癒しを与えてくれる。だけどどれも頼りなくて、どこか震えていて、心音でさえ消えてなくなってしまうような儚さを感じさせた。

「思い出してくれないの?」

「思い、出せ、ない」

 思い出したくない。

 なのに……。

 それに反抗するように今まで思い出せなかったものが、自然と脳裏に映像が流れる。それは鮮明に、今まで忘れてたってことが不思議なくらいに。


            ***


 奏は体が弱かった。幼い頃から手術などを繰り返し、病院生活を余儀なくされていた。いつも辛いのにそれを隠して、周りに愛想を振りまく姿は痛々しい。それなのに彼を止める術もない。彼を笑顔にすることも、彼の病気の重さも知ってあげられない。

 でもこの日だけは違った。奏は病院を抜け出して外に逃げ出す。

 そんな彼を見失わないように、離さないように私は彼に説得していた。

『ねえ戻ろう? ちゃんと薬飲まないと──』

『もうやだ……死んじゃいたい! 離して! 放っておいて!』

 逃げ去ろうとする奏の手首を私は掴んで引き止めていた。相手は男と言っても病弱で力が弱い。

『奏! お願い、戻ろう? ね、お願い!』

 人ごみの中は手をうっかり放してしまいそうになる。だけど必死にその手を放さないよう握る手に力をこめた。

『じゃあ僕のためだけにピアノを弾いて! 僕のそばにずっと居て。じゃないと僕は死ぬ!』

『だからそれはできない。私は奏のそばにずっといることはできないし、ピアノだって奏のためだけに弾くことはできない。だけど死なれるのは困る。でも……』

 最後の言葉を言おうとした瞬間、奏の手が手の間からするりと抜けた。そして人ごみをかき分けて奏が道路に向かって走り出す。

『紫苑! 危ない!』

 背後から声が聞こえた瞬間、大きなクラクションが鳴り響いた。目の前で車の前に飛び込む奏に心臓が大きくはねた。

『奏!』

 必死に手を伸ばした。

 宙に舞う手をつかみ引き寄せる。だけどその反動で私の体が投げ出された。


 そしてすぐそばまで迫っていたトラックに私の体は放たれた。


            ***


 目からは涙が、額からは汗があふれ流れていた。

息が苦しい。息ができない。

心臓が握りしめられるような感覚に覆われて、奏の体にすがりつく。力の入らない手を必死に動かし、奏のシャツを握ろうとしていた。

「紫苑、思い出したの?」

 万里の声が張りつめている。緊張しているのか少しだけ震えていた。

 奏の手が私の背中を優しくさすった。抱きしめる力を強めて私を腕の中に閉じ込める。

 震えが伝わってくる。鼓動が伝わってる。あの恐怖が私を襲う。

「奏、奏、奏……!」

 何度も何度もその名を呼んだ。伝えきれない想いが涙となって、言葉となってあふれ出す。だけど上手に言葉にはできない。ただ名前を呼ぶことしかできないでいた。

「奏、奏、そぅ……」

 意識を手放す直前まで、私は奏の名前を呼び続けた。繰り返し、繰り返しその名を呼ぶ。

 私は奏のように想いを伝えるのが下手だから、どんな言葉をかけたらいいか分からないし、どんな想いを届ければいいのかが分からない。

 だけどたった一言伝えたかった。


「奏が無事でよかった」


 その一言を。





最後までご覧いただきありがとうございました。感想などいただけるととても喜びます。


またの作品でお会いしましょう。

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