銀杏の匂いとチーズの味
十月になった。なぜか気温がまだ高く、未だ半袖で過ごしているが周りは衣替わりを見せ始めている。
新緑だった葉っぱはしおれて地面に落ち、代わりに暖色系の色とりどりの葉が見え始めた。風も生温い嫌なものから清々しいさっぱりとしたものに変わってきたように感じる。だけど、僕が一番秋だなと感じるのは銀杏の匂いである。うちの大学にはイチョウの木が多く、秋になると銀杏が大量に落ちてくる。それが学生や教授に踏まれて潰れるものだから、その匂いがあちこちに振りまかれる。人によってはそれが苦手なのか、はたまた悪臭だと感じるのか、防菌マスクの上からさらに鼻をつまむ様子が見えたりする。
でも、僕はそんな銀杏の匂いが好きだ。あの掃除の手を抜いた便所と言えるようなあの匂いが好きだ。匂いの分類としてはくさいほうに分類されるかもしれないが、それでも僕はあのなんとも言えない匂いが好きだ。変わり者と思われるだろうが、あの香りが秋の到来を物語っているようで、とてもうれしくなる。ペンネームでバレているかもしれないが、僕は季節の中で秋が一番好きだ。
話は全く変わるが、僕はチーズが嫌いだ。熱したり、味付けを変えたりすれば食べられるし、ピザの上のモッツアレラや、ハンバーガーの間のチェダーは好きだ。でも、生や単体でチーズを食べるのはどうしても好きになれない。人によっては、はちみつをかけて食べたり、わさび醤油をつけたりするが、僕には全く分からない。特に苦手なのがブルーチーズで、あの苦酸っぱい味が非常に苦手である。嫌悪感が湧くほど嫌いではないが、とにかく非常に苦手だ。
さて、ここで僕が言いたいことは好きも嫌いも表裏一体であるということだ。当たり前と言えば当たり前だが、好き嫌いは人それぞれの個性だ。育ってきた環境、体験や思い出、五感の感覚、文化体系、これらすべてが複雑に積み重なりあって構成されたものである。よく例に上がるのが納豆だろう。外人の多くはこれらを苦手だと認識している。なぜなら、彼らの文化には腐った豆を食べる文化がなく、あの醗酵した匂いも彼らからすれば悪臭なわけである。もちろん納豆が好きな人もいるとは言えど、僕の認識では大部分が苦手だと思っているはずだ。極端な例を挙げてしまえば、僕には松坂牛が不味いから嫌いだと言っている友達がいた。そいつは代わりに外国製の味も健康にも悪そうなジャンクフードを旨そうに食べていた。後日食べてみたが、到底人間が食べるものではないと思った。でも、それは僕の銀杏の匂いとチーズの味の例と同じで、他の人には絶対に理解できないことであっても、個人の中でははっきりとした主張なのかもしれない。
自分との差異が大きすぎると変と思うことは当たり前ではある。ただ、自分の感性を善と信じ込んでその個人を攻撃したり、否定することは間違っている。それは君として正しくても、他人からすれば狂気の沙汰ではないことの可能性を常に頭の中に入れておかなければならない。自分の利益が必ずしも他人の利益ではないことは十数年も生きていれば分かる。自分の意見や思いを褒めてもらうのではなく、他人の考えや感情を受け入れるべきだ。多面的で多角的な観点は相手のことを思いやる、考えてやることから生まれると思っている。
正しいか正しくないかは、好きか嫌いかだ。
それが好きであれば正しいし、嫌いであれば悪になる。