花びらひとひら手のひらに 前編 (8)
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入野香苗が、転校したことを知ったのは夏休みが終わったあとだ。
久しぶりの学校ということですっかり油断し、寝坊したおれは、遅刻寸前で登校。
すぐにHRが始まったのだが、クラスのほぼ全員が当たり前のように勢ぞろいしているなか入野香苗の場所だけ空席となれば、鈍感なおれでもさすがに気付く。
あれ、入野いないじゃん。
も、もしやおれのせいで、登校拒否になったんじゃなかろうか。
びくびくと内心おびえながら座っていると、先生が告げた。
入野香苗さんは転校しました。
そのときの気持ちを何にたとえることができるだろう。
思い浮かんだのは切羽詰まった表情で、おれに好きと告げてくれた女の子だ。
こっちの胸が張り裂けそうになるくらい、切実で、必死に訴える声。
放課後のけだるい匂いと、セミの鳴く声、夏の日差し。
そのときに感じたあらゆる感覚が怒涛のようにあふれてきて、ひりひりとした熱情がおれの胸や脳裏を焦がす。
それは、入野がおれにぶつけた想いの残り火みたいだった。
HRが終わった後、どちらからともなく充と目線を交わし、なんとなくという感じで互いに近寄り、なのに特に会話することもなく手持無沙汰な気持ちで窓際へ移動する。
飛行機雲が見えた。くっきり浮かぶその尾は入野の場所へ続いているように思えた。
「わたし、知ってたんだ。香苗が転校すること」
「ふーん」
ポツリと、充は、言葉を噛み締めるように、ゆっくりと紡いだ。
「たぶん、さ。香苗、すごく不安だったんだと思うんだ。香苗、すっごく悩んでて、わたし何もできなかった。転校先で友達できるのかとか、わたしと離れたくないだとか、いろいろ、いろいろ。本当に、いろいろ話してくれたのに、わたしなにもできなくて。なにも、言えなくて。あの告白だって、わたし本当はどうすればよかったのかなんてわからない。でもさ、あの告白のときの香苗って、すごいと思ったよ。あの香苗が、あんなに取り乱して、それを聞くこっちが、本当につらくなるくらいで。あんなに一生懸命になって、すべてを振り払ってあんたに告白して、ああ、なんてすごい親友を持ったんだって、そう思った」
「ああ」
「だからさ、ありがと」
「なんで?」
「……ちゃんと、香苗に向き合ってくれてありがとう。わたしと香苗のことを信じてくれてありがとう。まあ、いろいろ、ありがと」
「なんだよ、気持ち悪いな。お前らしくない」
充の口から感謝なんていう高尚な言葉が紡がれるのは、なんだか無性に照れ臭い。
「だからわたしらしくってなんなの」
唇をとがらせ、河童の口になる充。
そんな顔を見ながら、ふと思い出す。
――洗脳だとかマインドコントロールだとか言われたくない。
あの言葉が本当だとすれば、
――お父さんやお母さんに、せ、洗脳されているのに。
香苗の言葉は二人の間に致命的なヒビを入れてもおかしくはなかっただろう。
しかし、そうはならなかった。それは、なぜか。
きっと充が言われたくなかったのは「自分に対して」ではないからなのかもしれない。
充が嫌がったのは、きっと――。
「なにはともあれ、大事な友達なんだろ。なら、大切にしなきゃな」
「……それは、そうかも。うん。そうだ」
充は窓の外の飛行機雲に視線を移していた。
その飛行機雲は思いを繋ぐ架け橋のように長く長く伸びていた。