花びらひとひら手のひらに 前編(3)
「はいはい、みんな、席に着いて」
パンパンと手を叩きながら、神経質そうなガリ痩せ男性教師が教室に入ってきた。
「まずは、自己紹介から」
中指でクイッと眼鏡のフレームを押さえながら、
「僕の担当科目は主に数学です。趣味は……やっぱ家庭菜園かなぁ」
という一ミリも興味がわかない情報をイキリ構文にしながら語り終えてくれた担任教師を皮切りに、生徒それぞれの自己紹介が始まった。
「かなぁ」のところだけ、真面目な顔を崩し、ドルオタが推しの自慢話をするときのようにだらしなく口元を緩ませて恥ずかしがってたが、どうか安心してほしい。
生徒の心はさざ波も揺れなかったろう……馬鹿野郎、無茶しやがって。
一通り終わると、クラスのHR委員を決めることになった。
「ぼ、ぼくが、や、やりたいでっ!!」
その時に真っ先に手を上げ、舌を噛んで突如悶え始めたのが久保眞人だった。
あどけない顔立ちにほっそりとした顎と首筋。
くりっとした瞳が庇護欲をくすぐってくる。
周りと比べて低い身長のせいもあって、初対面ではドジッ娘美少女にしか見えなかったわけだが、残念ながら名前のとおり眞人は男だった。
なにやら家訓で本当は女の子なのに、男装しなければいけない事情がある、と誰かに囁かれたりしたならばその時のおれならばあるいは信じてしまっていたかもしれない。むしろ進んで誤解しようと決意する所存である。
しかし今はその足や手は見るからに震えており、その可愛らしい顔から熱したやかんのような蒸気が噴き出しそうだった。
少なからずの人が思ったことだろう。
なぜこんな奴が立候補しようとしたのか。
『こいつをHR委員にして、大丈夫か』と。
案の定担任の先生は、ずり落ちた銀縁フレームの眼鏡を掛け直し、口の端をひくりとさせながら他の生徒を見回した。
「ほ、ほかに、立候補……いや推薦とかでもいい。あったら遠慮なく言ってほしい」
なんかやけに必死である。
すると推薦で一人の生徒の名前が挙がった。その生徒も『ふ、しょうがねーな』という顔を浮かべて、了承した。彼の姿は眞人とは対照的で、堂々としたものだ。
結局眞人は選ばれなかった。
多数決になったとき、眞人の方に手を挙げたのは、たったの二人だけ。
充とおれだ。
おれが、眞人に手を挙げた理由は簡単だ。
なんだか知らんが、こんなに必死になって、あんなに懸命な顔で手を上げて立候補しようとする奴に、クラスを引っ張っていかれるのは悪いことなんかじゃないだろうと思ったのだ。
落選が決まったとき、こそっと眞人の様子を見て、おれは目を細めた。眞人は肩を落とし、とほほ、と声が聞こえてきそうなほど見るからに落ち込んでいた。ひどく情けない姿のはずだった。なのに、なぜだろうな。
そのときのおれの目には眞人が眩しく映っていたのだ。
人前で恥をかいてでも、やりたいという意思を示すことは、簡単なことじゃない。
本当に難しくて、だからこそ、今でもこのときのことを不意に思い出す時がある。そしてこの胸に懐かしさとわずかな勇気を与えてくれたりするのだ。
こんな些細なことが、大事な思い出になるのだから記憶というのは不思議なものである。
ところで、このあと女子のHR委員が選出された。
それが中村充であったことに対しては驚きはない。
なにせあの外見と性格だ。適任という言葉以外にふさわしいものがおれにはみつからない。
さて、そんな眞人と仲良くなったきっかけがある。
入学式から数日後のことだ。
新しいクラスになじめるよう、互いに交流するためのレクリエーションが企画された。
眞人との出会いはそのグループ分けをするため、生年月日順に並び、隣り同士で二人一組になるよう指示されときに訪れた。
「……おれ、五月二日だけど、お前何日?」
とことこと隣りにやってきた眞人への一言目がそれである。我ながら不愛想な顔をしていたかもしれない。
「え、偶然だね! 僕も二日だよ!」
すると、同じ誕生日であることが判明したのである。
この時は驚いた。
だが、すぐにまあ、こういうこともあるだろうと思いつつ。
一つだけ、白黒はっきりつける必要があった。
「おまえ、おれより背がちっちゃいから、きっとおれのほうが年上だろうな」
どっちのほうが年上かどうか、はっきりさせる必要があったのだ!
……いや、勿論、本当はそんなことはどうでもよかった。
心中では、『同じ月日で、大した差なんてないだろう! そこでマウントを取るとか、どんだけむなしい話題なんだよ!』と冷静なおれBが、馬鹿なことを言ったおれAの肩を揺すって問い詰めるくらいには、言ったことを後悔していた。
『初めての友達を作る機会が訪れたので……、なんとか活かそうと思い余って言っちゃった』というのがおれAの言い分だ。くっころ!
「……はあ?」
案の定、怪訝そうな声と表情。しかしすぐに眞人はニヤッと男の娘が小悪魔的可愛さを振り撒くように歯を見せた。
「そういうこと言い出す奴のほうが人間小さいってもんだよね。きっと僕のほうが年上だろうなぁ」
それがおれと眞人の出会いだった。
なんとなく気が合い、なんとなく一緒にいる。
そんな関係になったのは、まさしくこの時からだ。
しばらくして、放課後のロングHRでクラス合唱曲の指揮者を決めることになった。
またもやこの時に手を挙げたのが眞人だった。
HR委員を決めるときの眞人の印象は気弱そうなイメージだったが、接してみればむしろおれの前ではいつでも強気だった。
要するにあがり症というやつだったんだろう。
このときも、眞人はHR委員を決めるときみたいに、紡ぐ言葉は噛み噛みで、頼りなさそうだった。
教室内にまたもや戸惑うような空気が流れそうになってしまったのでおれは思案し、それを打破しようという一心で焦っている眞人に檄を飛ばしてみた。
「保護欲くすぐる作戦か? さすがだな、眞人。可愛いぞ」
「ば、違う! 僕は女の子じゃないんだぞ! 可愛いとか言うなっ」
『お、おう、これじゃあ、ただの嫌がらせみたいになっちゃったな、失敗しちゃったテヘッ☆』 とか内心思っていたのだが。
なんと、クラスメイトたちがそんなやり取りを聞いて爆笑。
さっきまでの雰囲気が一転、一気に和やかムードになったのだ。
『け、計算通り』とおれはほくそ笑んだ。
決して、あたふたする眞人の姿が可愛いかったから思わず言ってしまったのでは無い。
……今は悪かったとは、思っている。
ちょっとした茶目っ気だったのだ。そのあと、眞人がおれのところにきて大激怒したのは言うまでもないだろう。
無事クラス合唱の指揮者に抜擢された眞人だが、このときのピアノ伴奏者がなんと!
中村充だった。
いやー、これがぴったりな感じだったのだ。なんせ外見は超絶級の美少女だ。
きりっとした切れ長の眉に、大きな瞳。
背筋をピンと伸ばし、肩ぐらいのとこで切りそろえられたセミロングの髪がピアノを弾くたびに揺れる。
そんな完璧ともいえるピアノ伴奏に対して、眞人は一所懸命にタクトを振るっているのだが、素人目から見てもたどたどしい。
まあ、眞人に関しては仕方ないだろう。誰だって最初はこんなもんだ。
ただ相手が悪かっただけの話である。
ピアノを弾く充の姿は、高嶺の花という言葉がしっくりくるような立ち居振る舞いなのだ。
そんな相手と、一所懸命だけど失敗しちゃう愛くるしい姿が魅力の眞人を比較するのも酷な話である。しかし指揮者と伴奏者という目立った存在であるためやはり比較されないことは難しく、残念ながら傍目からはいつもの倍増しで眞人は情けなく映ってしまっていた。
そのことを指揮終了後、眞人が落ち込みながら、「どうだった?」と聞いてきたときに、率直に言ってやったら、がっくりと項垂れていた。「充さんすごすぎだよ」などと弱音を吐いていた。
「くそう。中村さんに負けないように、いっぱい練習するしかないな!」
だが眞人はひとしきり落ち込んだあと、自分を奮い立たせることも忘れてはいなかった。
感情の揺れ幅は大きいけど、最後には必ずポジティブ眞人になるのだ。楽しいし、可愛い奴なのである。
「おう、その調子だ」
「ちょっといい?」
そんなやり取りをしていると、虫も殺さないような笑みを浮かべて中村充が声をかけてきた。
「さっきの指揮、めちゃくちゃで、合わせるのすごく大変だったんだ。途中から指揮無視しちゃったよ」
「え」
いきなりど真ん中に150キロの剛速球を投げられ立ち尽くす野球初心者みたいな顔を浮かべる眞人。
「はっきり言って、今のままじゃ全然だめだめだね!」
「あ、あう、あう」
容赦のない充の言葉によってさっきまでのポジティブ眞人の姿はなくすっかりネガティブ眞人と化していて、おれは笑ってしまった。泥沼に沈みこんでいる眞人の代わりに、おれが応対する。
「お前、見かけによらず容赦ないな」
「見かけって? そんなの関係ない。外見で中身を判断されるのは心外だから。あんたってそういう人間なの?」
「いやどうだろう。さすがに、初対面に近い相手の内面を図ることなんてできないからな。ただ、容赦ないなって思っただけだって。それに言われてみれば、容赦ない性格でも違和感はないな。なんていうか似合ってるわ」
「そう」
「で? それだけか? それ以上言うとこのネガティブ眞人がさらなる変化形態うつうつ眞人になってお前に襲い掛かるかもしれんから、やめとけって」
おどけて言うと、充はクスッとその表情を崩した。
「……なにそれ。なんだかよくわからないけどすごくやめたくなった。えっと、あんたの名前、たしか西森康平だっけ。べつにあたしはそこの眞人君を責めてるわけじゃないんだけど。初めてなんだから、たどたどしいのは当然だもん。でもね——……」
ギラリと獅子の眼光のような鋭い視線をおれに向ける。
「なんかみんなニヤニヤしてこっち見てるのがすっっっごく、嫌だった。頑張ってる人間に対してあんな視線を向けるなんて失礼だと思わない? わたしまで笑われてるみたいで……。とにかく、このまま笑われたままはなんかいやだから!」
顔をぐいっとおれに近づけながら語気を強め言ってきた。
瞳には炎が揺らめいている気がした。
「わかったわかった。って、なんでおれにそんなこと言うんだよっ。こいつに言ってくれ」
見た目と違って熱血なお嬢さまである。
おれは至近距離でそんな充の視線を受け止める度量はなく、慌ててネガティブ眞人を盾に使ってターンエンドすることにした。
「あ、あの……?」
眞人が恐る恐る、震える小動物のように充を見ていたのが印象的だった。その時の眞人の目には充の姿がさぞ恐ろしい獣のように映ったことだろう。
「特訓よ!」
「え、ええええ!」
「じゃ、じゃあ、おれはこの辺で……。が、頑張れよ、眞人!」
なにやら面倒くさそうなことになりそうな気配を察知し、おれはその場からそそくさと立ち去ることにした。
「はくじょうものおおおお」
後ろから恨めしそうな声が聞こえてきたが、気にしないことにした。
どんな特訓を受けたのかはわからないが、眞人の指揮は日を追うごとに良くなった。まだまだぎこちないところはあるが、それでも見ていてハラハラしない程度にはできているように見える。あくまでも素人目から見て、ではあるが。
おれとしては休み時間のちょっとした隙間に、眞人と充が二人で練習している姿を見ていたので、感慨深いものがあった。
ということでおれは合唱練習後、早速眞人を褒めることにした。
「指揮うまくなったな眞人。かっこよかった。それはもうラブコメの主人公みたいにかっこよかったぞ」
「なに、それ。本当に褒めてるの?」
そんなおれの完全無比な称賛に対して充が横から突っ込みを入れてくる。
「純粋なほめ言葉だが?」
「おちょくってるようにしか聞こえないけど?」
「え、ほんと?」
「うん」
おれをまっすぐに捉える充の目を見つめ返すと、眼差しには柔らかな感情が含まれているようで妙に落ち着かない気持ちになってしまう。
声も真剣というよりは冗談交じりで、しかし紛れもない本心であることも伝わってくる。
そんな充の整った顔をいつまでも見つめていると不整脈が起こるので、目を逸らすと、眞人がニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべていた。
「なんだよ?」
「いやあ、なんかぼくたち気が合うなあって」
「わけがわからん。ていうかおれはそれほど中村とは話したことがないしな。傍目からは付き合っててもおかしくない程度のお前らとおれを一緒にするなよな」
「へ?」
「はあ、いやだいやだ、いるのよね、そういう邪推する奴。ほんと大きなお世話っていう感じ。馬鹿じゃないの」
恥らう乙女のごとく頬を染める眞人と、心底嫌そうな顔を浮かべる充。おれはそんな二人の反応が面白く感じられて、噴き出してしまった。
「なによ、全然おもしろくないんだけど」
「い、いやあ、悪い。でも、眞人めっちゃ顔真っ赤」
「ば、ばっかやろう! ちがうって」
「そこまで顔を真っ赤にされると、なんかわたしも恥ずかしいからやめてほしいんだけど」
「ご、ごめん、中村さん」
「いや謝られても、ね。どうしてくれんのよ。なんか変な空気になっちゃったじゃない」
「悪い悪い」
「全然悪くなさそうに謝んないでくんない? まあいいけどさ」
肩を竦める充。その口元は満足そうに緩んでいたのを、今でもよく覚えている。