花びらひとひら手のひらに 中編(4)
「しかし、康平ってけっこう家族多かったんだなあ」
女鳥羽川の河川敷を歩いているとき、眞人が赤とんぼを目で追いながら言った。
おれの家は女鳥羽川を挟んで東側に位置し、中学校や眞人の家は西側にある。おれは毎朝川沿いを通ってこの先にある歩道橋を目指すのだ。
「……ほんと。康平はあのお姉さんにだけは頭が上がらないような感じがした。康平のお姉さん綺麗な人だったなあ。理想のお姉さんって感じ、包容力があって……胸がおっきかったし」
くっ、なぜだ。ほんの少しだけしか見られてないはずなのに、うちの家族の絶対的上下関係がばれている!
「そ、そそそ、そんなことねーよ。ってかそんなこと気にすんなよ。胸は大きさじゃない形だ」
「……形って、どんな?」
充はちらっと視線を上げて、唇を突き出した。
「そうだな、衣服を着けたときにどうかっていうのも重要だ。大きすぎると、逆に形が崩れてしまったり、明け透けすぎたりする。良い胸とはトップとアンダーのバランスがよく、衣服をつけたときに程よい主張をするくらいのものだ、と思うぞ。おれの理想だが」
「やっぱ大きさも大事なんじゃない。あんたの理想なんてどうでもいいけどね」
言いながら視線を一瞬だけ自分の胸へと下ろした。
ブレザー越しに出来るのはシワとわずかなふくらみぐらいなものでおれの理想とは程遠かったわけだが、その充のさりげない確認の動作が可愛かった。
おれの隣を歩く眞人も顔を赤らめてしまうほどだ。
目線に気がついた充も頬を秋山の紅葉の如く変化させた。
「康平の馬鹿」
「いやなんでおれだけなんだよ。眞人も同罪だろ」
「康平が変なこと言ったから」
もう、と小走りに横にあった階段を登っていく。一段駆け上がるたびに充のプリーツスカートが翻って紺色のソックスの脚線と、むき出しの膝裏が覗いた。
……話を振ったのは充のほうじゃなかったっけ。
口をつぐみ充に続いて階段を登ると、一際冷たい風が顔に当たる。
金木犀の匂いがかすかにした。
身を震わせながら近くにある歩道橋へと向かうと、対岸には児童館のブランコやシーソーなどの遊具が見えて、おれは立ち竦んでしまった。
児童館の近くには太い幹を持つ松が何本か並んでいる。
しかし、枝はかなり上部まで切り取られていた。少し不恰好な姿なのだが、それは自殺防止のためであることをおれは知っていた。
親父はあの松の枝の一つに縄を括って、首を吊ったのだ。川の水に氷が張り、木々につららができるくらい寒い冬の日に。
最近は平気だったのに、今日は親父に見られているような気がした。
『おまえ、幸せそうだな』
声が、背後から聞こえてくる気がした。
誰かが這い出てきて、耳元で囁いているような気配がした。心臓を鷲掴みされたような鼓動が走って、振り返るが、誰もいなかった。首を振って歩道橋を渡ろうとしたおれを、心の奥を見据えようとするような深い色合いの瞳で充がじっと見つめてくる。
「…………」
「なんだよ?」
だが「別に」と充は素っ気無くそっぽを向き、歩道橋の真ん中で立ち止まる。背伸びをしながら冷たい風に目を細めていた。おれも充の隣に移動し手すりから少し頭を出して、西岸の橋の下を覗きこんでみた。
親父が亡くなってからしばらく、おれは何度もあの橋の下に足を運んでいた。
子猫を拾ったのだ。
親父の遺体との対面を終えた日。しんしんと雪が降り積もって静かな昼下がりだった。
病院を出たとき、鳴き声が木霊していた。
声の方を辿っていくと、白化粧した電柱から伸びた電線の下、車が二台分通れるほど広い一車線の真ん中に猫が横たわっていた。真っ白な雪に、真っ赤な血をぶちまけて。
臓器を撒き散らした親猫の前で、子猫だけは傍にいて鳴いている。しかし猫の死体に気がついた人は汚物を見るように目を逸らしていた。
おれも目を逸らしていたかった。だけど、子猫は鳴いていたのだ。
——親猫の死体の前で、その意味もわからぬまま、ただ起き上がるのを信じるように、祈るように、ただ、鳴いていたのだ。
子猫を拾うつもりなんてなかった。ただなんとなくこの親猫の墓を建ててやろうという気まぐれを起こしてしまっただけだ。おれは着ていた紺色のダッフルコートを脱ぎ、それで親猫を包むように拾い上げ、ついでに子猫も片腕に抱き寄せると、親父が首を吊った場所を目指し——この橋の下に親猫を埋めた。それからしばらくの間子猫の家をダンボールで作って、橋の下へ何度も子猫の世話をするために訪れていたのだ。子猫が誰かに拾われてからは行かなくなったのだが。
「さ、ぶ!」
ふとしたときにセンチメンタルな気分になることは誰しもあることだろう。
だが残念なことにおれは物事を深く考えられないタチのようである。
すぐに橋の上へと吹き込む冷たい風に耐えられなくなった。
とぼとぼと歩き出すと、眞人たちも後からついてきて、のんびりと会話しながら橋を後にした。
眞人の家に着く頃合いにはもう日は大分傾いていた。
「今からじゃそんなにゲームできないけど、充さん、大丈夫?」
「ん、ここまで来たんだから、冒頭だけ見させて。別に雰囲気さえわかればいいから。それに今日は二人の家の中を覗けて、なんだか楽しいな」
おれはすかさず自分の願望を述べることにした。チャンスは今だ!
「なら、お前の家に今度遊びに行かせてもらおうか。お前の弱みを知りたい」
「なんなのよ、その理由は。……でも無理。あんたら連れてきたら誤解されるもの」
少し俯く。伏せられた長い睫毛が夕日の橙色に染まっていた。なにを誤解されるというのだろう。質問しようとしたのだが、眞人が訝しげな声色で何かをつぶやいたので、やむなく言えなくなった。
「あれ、家になんか人が来てるな」
身なりの良い格好をした二人組の女性が眞人の家に立っていた。
どうやらもう帰るところらしい。
「あ」
小さくても、確かに驚いてるとわかる声が充の口からこぼれた。
五十代の年配の女性がにこにこと見るからにわかる作り笑いを浮かべている。
「あれ、充ちゃんじゃない。どうしてここに、あら、お友達?」
充に話しかけていた。じろじろと観察する視線を充やおれたちに飛ばしているのがわかる。なんだこの人失礼じゃないか。充を見ると、その顔から血の気が失せていくのがわかった。
「あ、いや、その、あの」と充は口ごもった。
「……東姉妹、玄関先ですから。お邪魔しました」
もう一人の若い、といっても三十代くらいだろうか。リンスのCMにでも出てくる
ような艶やかな髪の毛を後ろで束ねた綺麗なお姉さんが口を挟んだ。お姉さんはそのまま年配の女性を文字通り背中を押して歩き始め、おれたちの横を通ったとき、
「充ちゃん、気まずい思いをさせちゃったね、ごめん」
充の耳に囁いたのが聞こえた。その口調から充とは親しい間柄のようだった。
去っていく二人の背中を充は口を引き結んで見ていた。
「充さん? 大丈夫?」
眞人が声を掛けると充の肩が跳ね上がった。
なんだ。ただ、おれたちと一緒にいただけだぞ。それの、なにが、充にとってまずかったんだ? あの二人組の女性に見られてやましいことなど、なにもないのに。
「充」
「ごめん。今日は、帰る。ファイナルファンタジーは自分で調べてみる」
手を振って、あの二人組の女性を追いかけていった。
おれと眞人は顔を見合わせる。
「大丈夫かな、充さん」
「まあ、色々あるんだろう。おれたちがあんまり気にすると、充も気になっちゃうかもしんないし、おれたちは変わらず、今までどおりでいいんじゃねえか。と、おれは思うが」
肩を竦めながら言ったら、なぜか眞人がすこし目をパチクリと。意外なものを見たようだ。
「どうした?」
「いや、なんというか、そういうところが、大人っぽいな、って思って」
「大人っぽいって、なんでだよ」
「なんとなく、かな。ちょっとかなわない、と思ってさ」
「なにがだよ」
家に入ろうとする眞人の背中に聞いてみたが、
「なんでもない」
とぼけられた。なんだよ。